スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋聖戦&『破門の哲学』

2012-04-27 18:53:34 | 将棋
 3年連続の挑戦を目指す深浦康市九段と,タイトル戦初登場を窺う中村太一五段によって争われた昨日の第83期棋聖戦挑戦者決定戦。第18期銀河戦決勝トーナメント1回戦で一局だけ対戦していて,それは中村五段の勝ち。
 振駒で中村五段の先手。深浦九段が横歩取りに誘導。中盤は難しいのではないかと思えたのですが,一遍に先手必勝に近い局面となりましたので,その辺りを。
                         
 先手が☗8三角と打ち,後手が7四にいた飛車を逃げたところ。ここで☗4六金と出たのですが,おそらくこの手が勝着だったのだと推測します。☗5五金と出られると飛車の行き場がなくなる後手は☖5四歩ですが,さらに☗4五金と進出。☗5四金を防いで☖5三銀ですが☗7七桂と援軍を送りに。☖4四桂☗4六飛と少し緩和してから☖1四角と出ましたが,☗6五桂が実現。☖3六銀の攻め合いにも相手をせず☗5三桂成。☖同王に☗6五銀と打ちました。
                         
 進出した後手の銀が質駒となっていて,ここは先手勝勢。そのまま一気に先手が押し切りました。
 勝った中村五段が挑戦を決めるとともに,六段昇段。これは4年前の師匠の確信の通り。とにかく駒が前に前にと出ていくような,勢いに満ち溢れた将棋で,羽生善治棋聖との五番勝負が楽しみ。第一局は6月6日です。

 『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』における,認識cognitioは純粋な受動であるというスピノザのことばを,文字通りに『エチカ』における受動passioそのものであると解した場合にはどうなるのでしょうか。この場合には,少なくとも『短論文』を執筆していた当時のスピノザは,事物の認識に関して,精神能動actio Mentisをまったく認めていなかったと理解することになります。いい換えれば,第二部定義三説明における知覚perceptioのみを人間の精神mens humanaはなすのであって,事物を概念するconcipereということはないとスピノザが考えていたと理解するということです。一方で,『エチカ』においては,明らかに精神の能動をスピノザは認めています。これは反論の余地がないところでしょう。したがってこの場合には,『短論文』を執筆していた当時のスピノザの哲学における認識論と,後に『エチカ』を執筆したときのスピノザの哲学の認識論との間には,ある重大な乖離があるとみなすことになります。すなわちこの間に,スピノザの哲学には,無視することができないような重大な変更があったということになるでしょう。
 僕はこのような立場は採りませんが,そのように考える学者というのももちろんいます。というよりも,実際にスピノザが文章として残している内容をみる限りでは,そう理解する方が自然であるということは,僕自身も同意せざるを得ません。たとえば清水禮子の『破門の哲学』は,そうした観点からの研究であると僕は理解しています。
                         
 基本的にこの著書における清水の研究は,スピノザの哲学それ自体の内容を明らかにするということよりも,スピノザがそのときそのときに,ある思想を有するようになった背景,とくにスピノザの生活環境という意味での背景の探求に力点が置かれています。僕はある人間が何らかの思想を抱くとき,その人間の時代的背景とかもっと個人的な生活条件といったものが,大きな影響を与えるということ自体は否定しません。たとえばマルクスKarl Heinrich Marxの哲学とか社会学,あるいは部分的には経済学も含めて,その思想を背後から支えているのはこうした観点だといえると僕は理解します。しかし一方で,僕の関心というのはスピノザの哲学の内容だけであって,その背景ではないので,この点に関してはここでは言及を控えます。

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