鶴巻温泉で指された第10期マイナビ女子オープン五番勝負第一局。対戦成績は加藤桃子女王が4勝,上田初美女流三段が2勝。
振駒で加藤女王の先手。序盤に駆け引きがありましたがごきげん中飛車①-Aと同じ形に進みました。32手目に飛車交換となり後手が龍を作る将棋に。
ここで☗5九金左と形にとらわれずに寄るのが龍の侵入を許さない受け方。後手は☖5六歩☗同歩と突き捨ててから☖4五龍と引きました。
☗3七桂☖6五龍とさらに龍を追って7六の歩を守るために☗5五歩。ここで☖3一角と引いたのは新手だったようです。
先手は龍を追い払うために☗4八金直と上がり☖5三銀☗5七金☖6四銀☗6六金とこの金を前進させていきました。ここでは後手の対応が間に合っていない感じです。
☖8五龍と逃げたのに対して☗2四成銀と進出。☖5三角に☗7七桂☖8四龍とさらに龍を後退させて☗2三成銀と進めました。
第2図はすでに後手が窮しているようです。後手の新手がうまくいかなかったという一局だったのではないでしょうか。
加藤女王が先勝。第二局は20日です。
認識cognitioが純粋な受動passioであるといういい方は,知性intellectusの外に,すなわち形相的にformaliter何事かがあって,それが自動的に知性のうちに,すなわち客観的に観念ideaとして形成されるというイメージを抱かせるかもしれません。いい換えるなら,人間の知性の思惟する力potentiaの源泉は,知性の外にある事物であるというイメージを抱かせるかもしれません。しかしスピノザはそのような主張をしているのではありません。
これは一般に人間が事物を表象するimaginariという場合にも妥当しています。第二部定理一六にあるように,人間の知性による表象作用imaginatioは,その人間の身体corpusの本性と外部の物体corpusの本性の両方を含んでいます。このとき,身体というのは物体としてみるなら知性の外に形相的に存在するものですが,第二部定理一三にあるようにそれは同時にその人間の精神を構成する観念idea, humanam Mentem constitutensの対象ideatumです。すなわち同一個体です。よって第二部定理七により秩序と連結ordo, et connexioが一致します。このためにそれに応じた表象像imaginesが知性のうちには発生しなければならないのであり,この事態は何らの因果関係も説明しません。つまり形相的なものとしてみられるような人間の身体は,その人間の精神の事物の表象の源泉であるとはいえないのです。
そもそも,スピノザの哲学の形而上学が,形相的なものが客観的なものの力の源泉あるいは原因であるということを許容しないようになっています。第一部公理五により,AとBに共通点が存在しなければ,AによってBを認識することはできませんし,BによってAを認識することができません。ところが第一部公理四は,結果の認識が原因の認識に依存しなければならないことを示しています。したがってこれらの公理Axiomaから,第一部定理三にいわれているように,共通点がないものは一方が他方の,他方が一方の,原因であったり結果であったりすることはできないということが出てきます。この定理Propositioはこのことを消極的な命題として示していますが,積極的にいうならば,原因と結果の間には共通点が存在しなければならないのです。しかし形相的なものと客観的なものの間には共通点がありません。つまり形相的なものが思惟する力の源泉であるということは不可能なのです。
振駒で加藤女王の先手。序盤に駆け引きがありましたがごきげん中飛車①-Aと同じ形に進みました。32手目に飛車交換となり後手が龍を作る将棋に。
ここで☗5九金左と形にとらわれずに寄るのが龍の侵入を許さない受け方。後手は☖5六歩☗同歩と突き捨ててから☖4五龍と引きました。
☗3七桂☖6五龍とさらに龍を追って7六の歩を守るために☗5五歩。ここで☖3一角と引いたのは新手だったようです。
先手は龍を追い払うために☗4八金直と上がり☖5三銀☗5七金☖6四銀☗6六金とこの金を前進させていきました。ここでは後手の対応が間に合っていない感じです。
☖8五龍と逃げたのに対して☗2四成銀と進出。☖5三角に☗7七桂☖8四龍とさらに龍を後退させて☗2三成銀と進めました。
第2図はすでに後手が窮しているようです。後手の新手がうまくいかなかったという一局だったのではないでしょうか。
加藤女王が先勝。第二局は20日です。
認識cognitioが純粋な受動passioであるといういい方は,知性intellectusの外に,すなわち形相的にformaliter何事かがあって,それが自動的に知性のうちに,すなわち客観的に観念ideaとして形成されるというイメージを抱かせるかもしれません。いい換えるなら,人間の知性の思惟する力potentiaの源泉は,知性の外にある事物であるというイメージを抱かせるかもしれません。しかしスピノザはそのような主張をしているのではありません。
これは一般に人間が事物を表象するimaginariという場合にも妥当しています。第二部定理一六にあるように,人間の知性による表象作用imaginatioは,その人間の身体corpusの本性と外部の物体corpusの本性の両方を含んでいます。このとき,身体というのは物体としてみるなら知性の外に形相的に存在するものですが,第二部定理一三にあるようにそれは同時にその人間の精神を構成する観念idea, humanam Mentem constitutensの対象ideatumです。すなわち同一個体です。よって第二部定理七により秩序と連結ordo, et connexioが一致します。このためにそれに応じた表象像imaginesが知性のうちには発生しなければならないのであり,この事態は何らの因果関係も説明しません。つまり形相的なものとしてみられるような人間の身体は,その人間の精神の事物の表象の源泉であるとはいえないのです。
そもそも,スピノザの哲学の形而上学が,形相的なものが客観的なものの力の源泉あるいは原因であるということを許容しないようになっています。第一部公理五により,AとBに共通点が存在しなければ,AによってBを認識することはできませんし,BによってAを認識することができません。ところが第一部公理四は,結果の認識が原因の認識に依存しなければならないことを示しています。したがってこれらの公理Axiomaから,第一部定理三にいわれているように,共通点がないものは一方が他方の,他方が一方の,原因であったり結果であったりすることはできないということが出てきます。この定理Propositioはこのことを消極的な命題として示していますが,積極的にいうならば,原因と結果の間には共通点が存在しなければならないのです。しかし形相的なものと客観的なものの間には共通点がありません。つまり形相的なものが思惟する力の源泉であるということは不可能なのです。
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