19日に指された第46回新人王戦決勝三番勝負第三局。
振駒で大橋貴洸三段の先手。菅井竜也六段のノーマル四間飛車から相穴熊に。中盤で後手に見落としが多くあったようで,先手の優勢に。相穴熊は玉の堅さが変わらないので中盤で差がつくと逆転は困難なのですが,この将棋は後手がうまく先手玉を薄くして,勝負型に持ち込みました。先手の指し方に問題があったのも事実でしょうが,そのあたりの後手の勝負術は見事であったと思います。
後手が香車で銀を取り,それを先手が取り返した局面。ここは逆転して後手の勝ちになっているのかもしれません。
☖8六桂とただのところに打ちました。金で取ると☖6六桂と打たれるので☗同歩。今度は開いた所に☖8七桂と捨て☗同金に☖7九龍。先手は☗6七銀と引いて受けました。
そこで☖6九銀と打てば途中に複雑な手順がありますが,後手の食い付きが続いて勝てていたようです。しかし☖5八銀と打ちました。
ここで☗7二角成と金を入手して☖同金に☗7八金と受けに回れば,後手の勝ちは変わらなくても難しいところがあったようです。ですが☗7三香で攻め合いに。しかしこれは☖同角と取られ,☗同歩成のときに☖8八香と打った香車をすぐに使われてしまいました。
第2図となっては先手玉に詰めろが続き,大勢は決しました。
菅井六段が2勝1敗で優勝。第5回最強戦以来,2度目の棋戦優勝。現行規定の新人王戦にまだ参加資格があったということが意外でした。
スピノザがそのように記述しているわけではありませんが,第二部定理三五に依拠すれば,虚偽と誤謬を概念notioとして類別できることは間違いありません。同じことが第二部定理一七備考からもいえます。これらは,自分の精神mensのうちにある混乱した観念idea inadaequataが虚偽falsitasであると気付くか気付かないかの相違に関係していわれているからです。ということはどちらの様式も現実的に存在するとスピノザは前提していた筈です。なので僕はスピノザが,誤った観念idea falsaが精神のうちに存在することを知るという様式にはふたつあると考えていたと理解するのです。
このうち,混乱した観念が虚偽であると気付かないという場合には,その観念の真理性に対する疑惑dubitatioは発生しません。なぜなら,虚偽が虚偽であることに気付かないというのは,虚偽が真理veritasであるか虚偽であるかが分からないということとは明白に異なっていて,虚偽を真理と思い込むということと同じだからです。つまりこの場合に,虚偽だけでなく誤謬errorもまた同じ人間の精神mens humanaのうちにあるといわれるわけです。
虚偽が虚偽であるとことを知るという場合には,疑惑が発生し,かつ力potentiaとみなせますから,真理を真理と知る認識cognitioの充足に近似していることになります。というのも真理と虚偽を分かつ真理の規範は真の観念idea veraすなわち真理自身にあるので,少なくともその精神のうちに,何らかの真理があることは確実だからです。ただし確実性certitudoは真理に対する認識の充足にあるというのが第二部定理四九備考でいわれていることなので,その人間が混乱した観念の対象ideatumとなる事物について確実であることにはなりません。
虚偽が真理か虚偽か分からない場合にも疑惑は発生します。ですがこれは部分的に虚偽を真理と思い込むということを含んでいます。含まれなければ虚偽であると知ることになるからです。ですからこの場合には疑惑の発生は認識の充足とは程遠く,よって何ら確実ではありません。
虚偽を真理と思い込む場合には,疑惑は発生しません。しかしこの疑惑の欠如が確実性を意味しないのは,第二部定理四九備考にある通りです。むしろこの疑惑の欠如は認識の不足privatioの方を意味するのです。
振駒で大橋貴洸三段の先手。菅井竜也六段のノーマル四間飛車から相穴熊に。中盤で後手に見落としが多くあったようで,先手の優勢に。相穴熊は玉の堅さが変わらないので中盤で差がつくと逆転は困難なのですが,この将棋は後手がうまく先手玉を薄くして,勝負型に持ち込みました。先手の指し方に問題があったのも事実でしょうが,そのあたりの後手の勝負術は見事であったと思います。
後手が香車で銀を取り,それを先手が取り返した局面。ここは逆転して後手の勝ちになっているのかもしれません。
☖8六桂とただのところに打ちました。金で取ると☖6六桂と打たれるので☗同歩。今度は開いた所に☖8七桂と捨て☗同金に☖7九龍。先手は☗6七銀と引いて受けました。
そこで☖6九銀と打てば途中に複雑な手順がありますが,後手の食い付きが続いて勝てていたようです。しかし☖5八銀と打ちました。
ここで☗7二角成と金を入手して☖同金に☗7八金と受けに回れば,後手の勝ちは変わらなくても難しいところがあったようです。ですが☗7三香で攻め合いに。しかしこれは☖同角と取られ,☗同歩成のときに☖8八香と打った香車をすぐに使われてしまいました。
第2図となっては先手玉に詰めろが続き,大勢は決しました。
菅井六段が2勝1敗で優勝。第5回最強戦以来,2度目の棋戦優勝。現行規定の新人王戦にまだ参加資格があったということが意外でした。
スピノザがそのように記述しているわけではありませんが,第二部定理三五に依拠すれば,虚偽と誤謬を概念notioとして類別できることは間違いありません。同じことが第二部定理一七備考からもいえます。これらは,自分の精神mensのうちにある混乱した観念idea inadaequataが虚偽falsitasであると気付くか気付かないかの相違に関係していわれているからです。ということはどちらの様式も現実的に存在するとスピノザは前提していた筈です。なので僕はスピノザが,誤った観念idea falsaが精神のうちに存在することを知るという様式にはふたつあると考えていたと理解するのです。
このうち,混乱した観念が虚偽であると気付かないという場合には,その観念の真理性に対する疑惑dubitatioは発生しません。なぜなら,虚偽が虚偽であることに気付かないというのは,虚偽が真理veritasであるか虚偽であるかが分からないということとは明白に異なっていて,虚偽を真理と思い込むということと同じだからです。つまりこの場合に,虚偽だけでなく誤謬errorもまた同じ人間の精神mens humanaのうちにあるといわれるわけです。
虚偽が虚偽であるとことを知るという場合には,疑惑が発生し,かつ力potentiaとみなせますから,真理を真理と知る認識cognitioの充足に近似していることになります。というのも真理と虚偽を分かつ真理の規範は真の観念idea veraすなわち真理自身にあるので,少なくともその精神のうちに,何らかの真理があることは確実だからです。ただし確実性certitudoは真理に対する認識の充足にあるというのが第二部定理四九備考でいわれていることなので,その人間が混乱した観念の対象ideatumとなる事物について確実であることにはなりません。
虚偽が真理か虚偽か分からない場合にも疑惑は発生します。ですがこれは部分的に虚偽を真理と思い込むということを含んでいます。含まれなければ虚偽であると知ることになるからです。ですからこの場合には疑惑の発生は認識の充足とは程遠く,よって何ら確実ではありません。
虚偽を真理と思い込む場合には,疑惑は発生しません。しかしこの疑惑の欠如が確実性を意味しないのは,第二部定理四九備考にある通りです。むしろこの疑惑の欠如は認識の不足privatioの方を意味するのです。
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