3強による争いが注目の的であった今年の東京ダービーだったのですが,その一角を占めたトップサバトンは発走で大きく遅れてしまい,ただ1周回ってきただけ。とてもレースに参加したとはいえず,馬や関係者,またファンにとっても残念な結果となってしまいました。とはいえ,競馬にはこういったことも避けられないという一面はあります。
事前に逃げ宣言をしていたマンハッタンバーの先導で前半の1000メートルが61秒0。これ自体はハイペースといえるでしょうが,向正面では後続もやや離れていましたので,まずまずのラップであったといえるでしょう。
2番手のロイヤルボスが早めに追い上げていって4コーナーでは先頭。その外からアンパサンド。さらに今日は中団からのレースになったフリオーソが馬群を割るように上がってこの外へ。3頭の叩き合いからロイヤルボスが脱落し,外の2頭が抜け出し,先に先頭に立っていたアンパサンドがフリオーソの追撃を凌いで優勝となりました。2着にフリオーソで3着にロイヤルボス。
北海道からの転入後ずっと善戦を続けてきたアンパサンドはこれが嬉しい南関東重賞初制覇。戸崎圭太騎手は一昨年のトゥインクルレディー賞以来の南関東重賞制覇。距離面にやや不安を感じたので3強の中では最も低く評価したのですが,あまり問題なかったようです。戸崎騎手も2度目の騎乗でこの馬のよさを発揮できました。2分5秒0という時計も,アジュディミツオーのときを上回っていますので,やはり全体的なレベルは高そうです。
惜しかったのは2着のフリオーソで,4コーナーを回ってきたときの感じではこちらが勝つのではないかと思ったのですが,直線に入っても手前を変えなかったのでいまひとつ伸びを欠いてしまったのではないかと思います。左回りの方が現状では力を発揮できるようですが,右回りでの走り方を覚えてくれば,さらなる上積みがありそうです。
本筋の証明は,実際にはこれだけでは万全とはいえないかもしれません。なぜなら,第二部定理七系の意味からして,神のうちにある観念はそのすべてが十全な観念ですから,本来はある有限知性のうちにある観念が十全な観念であるかどうかを検証するためには,その観念がどのような仕方で神のうちにあるかをみることが,スピノザの哲学における本来の方法であるといえるからです。
ここで再び第一部公理四と第一部定理二八に注目すれば,ある物体の観念は,その物体の原因となっているほかの物体の観念を有する限りで神のうちにあるということが分かります。一方,第二部定理一七は第二部定理一二を援用して証明されるわけですから,ここにも何らかの十全な観念があると考えられなければならないのですが,それは神がこの人間の精神の本性を構成する限りで,いい換えれば,神がこの人間の精神の本性を構成する対象であるこの人間の身体の観念を有する限りで神のうちにある観念なのであって,それとはほかのものの観念を有する限りで神のうちにある観念ではありません。したがって,この場合にこの人間の精神のうちにあるある物体の観念は十全な観念ではなく,混乱した観念であるということになります。
この人間精神のうちにある観念は,この人間精神の本性を構成するとともに,ほかのもの(つまりこの物体の原因となっているほかの物体)の観念を有する限りで神のうちにあるということになります。よってこれを第二部定理一一系に照らし合わせることによっても,人間の精神のうちにある物体のこの観念が混乱した観念であるということができると思います。
事前に逃げ宣言をしていたマンハッタンバーの先導で前半の1000メートルが61秒0。これ自体はハイペースといえるでしょうが,向正面では後続もやや離れていましたので,まずまずのラップであったといえるでしょう。
2番手のロイヤルボスが早めに追い上げていって4コーナーでは先頭。その外からアンパサンド。さらに今日は中団からのレースになったフリオーソが馬群を割るように上がってこの外へ。3頭の叩き合いからロイヤルボスが脱落し,外の2頭が抜け出し,先に先頭に立っていたアンパサンドがフリオーソの追撃を凌いで優勝となりました。2着にフリオーソで3着にロイヤルボス。
北海道からの転入後ずっと善戦を続けてきたアンパサンドはこれが嬉しい南関東重賞初制覇。戸崎圭太騎手は一昨年のトゥインクルレディー賞以来の南関東重賞制覇。距離面にやや不安を感じたので3強の中では最も低く評価したのですが,あまり問題なかったようです。戸崎騎手も2度目の騎乗でこの馬のよさを発揮できました。2分5秒0という時計も,アジュディミツオーのときを上回っていますので,やはり全体的なレベルは高そうです。
惜しかったのは2着のフリオーソで,4コーナーを回ってきたときの感じではこちらが勝つのではないかと思ったのですが,直線に入っても手前を変えなかったのでいまひとつ伸びを欠いてしまったのではないかと思います。左回りの方が現状では力を発揮できるようですが,右回りでの走り方を覚えてくれば,さらなる上積みがありそうです。
本筋の証明は,実際にはこれだけでは万全とはいえないかもしれません。なぜなら,第二部定理七系の意味からして,神のうちにある観念はそのすべてが十全な観念ですから,本来はある有限知性のうちにある観念が十全な観念であるかどうかを検証するためには,その観念がどのような仕方で神のうちにあるかをみることが,スピノザの哲学における本来の方法であるといえるからです。
ここで再び第一部公理四と第一部定理二八に注目すれば,ある物体の観念は,その物体の原因となっているほかの物体の観念を有する限りで神のうちにあるということが分かります。一方,第二部定理一七は第二部定理一二を援用して証明されるわけですから,ここにも何らかの十全な観念があると考えられなければならないのですが,それは神がこの人間の精神の本性を構成する限りで,いい換えれば,神がこの人間の精神の本性を構成する対象であるこの人間の身体の観念を有する限りで神のうちにある観念なのであって,それとはほかのものの観念を有する限りで神のうちにある観念ではありません。したがって,この場合にこの人間の精神のうちにあるある物体の観念は十全な観念ではなく,混乱した観念であるということになります。
この人間精神のうちにある観念は,この人間精神の本性を構成するとともに,ほかのもの(つまりこの物体の原因となっているほかの物体)の観念を有する限りで神のうちにあるということになります。よってこれを第二部定理一一系に照らし合わせることによっても,人間の精神のうちにある物体のこの観念が混乱した観念であるということができると思います。
私もブログを始めましたので
もしよろしければ暇なときにでも見に来てください
では頑張ってくださいね
哲学だからしかたありませんが・・・。
神とは、ユダヤ教の神のことでしょうか?
基本的には、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同じ神様です。
このブログの情報が役立っているかどうかは微妙ですが。
Logical Spaceさん,ありがとうございます。
スピノザの哲学でいう神とは,絶対に無限な実体のことです。
僕たちが一般的に神ということばでイメージするものとは
まったく異なった存在といっていいでしょう。
エチカにおける神の定義についてはこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/spinoza05/d/20060830
絶対に無限が何を意味するかはこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/spinoza05/d/20060831
実体が何を意味するかはこちらになります。
http://blog.goo.ne.jp/spinoza05/d/20060825
原則的にエチカは,定義,公理,定理から成っています。
こういう体系で示されるのは哲学でも珍しいです。
ただ僕自身はそのゆえにエチカというのは
理解しやすくなっていると感じています。
聖書では、神とは
1)神は御自分にかたどって人を創造された。
創世記1・27
2)「わたしはある。わたしはあるという者だ」
出エジプト記3・14
と書いてあります。
神は形あるものと解釈してよろしいのでしょうか。
ここには、神学的にはいろいろと解釈がされています。
なので、一概には言えません。
人間と同じ意思(心)をもっている方という理解もあります。
なので、「神は形あるもの」ではなくて「神は意思あるもの」だと理解できます。
これも、いろいろとある説の1つです。
やはりスピノザ哲学の解釈にも諸説あります。
実は僕はある時期にスピノザを読み直したのですが
その直接的な契機となったのは,
僕自身が神そのものを意志のようなものと考え,
それがスピノザの哲学に似ているのではないかと思ったからです。
しかし実際はそれは僕の勘違いでしたが…。
その点は否定しません。
ヨブ記を読むと分かりますが、神様は考え(思想)を持っていろいろと定めました。
スピノザの哲学では認めていませんので
相違があるように感じられます。
光が住んでいるのはどの方向か。暗黒の住みかはどこか。光をその境にまで連れていけるか。暗黒の住みかに至る道を知っているか。
ヨブ記38・19~20
ヨブに知っているか? と神様が言っている会話です。
会話をするので、神様は考え(思想)を持っています。
たぶん、哲学では神様が思想を持つことは認められないと思います。そういう点で違いがあるかも・・・。
別に私と相違があっても良いと思います。
細かい部分の話なので構わないと思います。