スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

不自然な暴力&実証主義

2016-07-03 19:24:22 | 歌・小説
 Kは自殺したとは言わずに変死したといった奥さんの「意図的ないい換え」は,Kの死に方の私の認識に対して大きな影響を与えたと僕は解します。僕がこの読解の根拠とした上二十四のテクストは,さらに別の意味を有していると思います。
                                     
 このときの先生と私の会話の中で,不自然な暴力による死といういい方を用いたのは先生でした。私はその意味が飲み込めずに,不自然な暴力とは具体的には何かと聞きます。それに対して先生は,自殺する人間は不自然な暴力を用いると答えます。私はKが自殺したとは認識しなかったので,このときの会話からはその時点では浅い印象しか受けなかったのです。一方,先生はKの自殺の第一発見者だったわけですから,Kのことを念頭にこのようないい方をしたと解するのが当然でしょう。
 ところがこの後で,自殺が不自然な暴力なら殺されるのも不自然な暴力だという意味のことを私が言うと,先生は殺される方はまったく考えていなかったけれども,確かにそれも不自然な暴力による死であるという主旨の答えをします。先生はKの自殺を念頭にこのように言ったということの根拠になる部分ですが,同時にこれは,単にKの自殺という固有の自殺だけでなく,一般に先生は自殺ということについてはよく考えていたけれども,殺されるということは考えていなかったという意味も有しているのではないかと僕には思えるのです。つまり先生はこの会話の時点では,将来の自分の自殺についても,漠然とではあれ考えていたのではないでしょうか。
 少なくとも私は先生のことばの意味をそのように受け取った筈です。だから私は会話があった時点では浅い印象しか残さなかったこの逸話を,後で手記を書くにあたって記述したと考えるのが妥当だからです。

 なぜ真空,延長の様態が排除された空間は存在し得ないということがロバート・ボイルRobert Boyleにとっては自明ではなかったのかといえば,ボイルは科学者として実証主義の立場を採用していたからです。ですからボイルにとっては真空の存在の不可能性は,何らかの実験によって確証されないのなら,単なる仮説にすぎないのであり,自明の真理ではありませんでした。同様にアトム,それ以上は分割することができない物体の存在の不可能性が,真空の不在からしか演繹的に証明できないのであれば,それもその時点では仮説にすぎないのであり,実験による検証という訴訟過程を経なければ真理として認めることができなかったのです。ボイルによる硝石の実験というのは,このうち後者,すなわちアトムは存在しないということの実証実験という意味を有していたというように僕は把握しています。
 これは僕の読解が悪いからなのかもしれませんが,『スピノザ哲学研究』では,真空が存在することは不可能であるということは,ボイルにとっては実証できないことであったと解せるような記述があります。ですが工藤自身が指摘しているように,オルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに宛てられた書簡十四の中には,明らかにボイルが真空の不在の実証を意図して行ったと思われる実験に関する記述があります。なので僕は当該部分の工藤の記述には矛盾を感じないでもありません。しかしたとえ僕の読解が正しいのだとしても,このこと自体は大した問題ではありません。ボイルが実証主義の立場であったこと,すなわち真空の不在は自明ではなくて実証されなければならないと考えていたこと,また仮にそれが実証され,そこから演繹的にアトムの不在が帰結するのだとしても,それだけでは不十分なのであって,アトムの不在もまた実証されなければならないと考えていたということは間違いないからです。
 これを僕は科学者であるボイルと哲学者であるスピノザの相違,すなわち科学と哲学の相違には帰しません。ボイルが主張しているのが科学から哲学を排除することだということは否定しませんが,僕はそのこと自体がひとつの哲学,とくに方法論であるとみなすからです。

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