スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

共同通信社杯&使用開始

2018-09-18 18:59:52 | 競輪
 高知競輪場で争われた昨日の第34回共同通信社杯の決勝。並びは平原‐和田の東日本,太田‐清水の四国中国,山崎‐山田の九州で郡司と浅井と村上は単騎。
 山崎がスタートを取って前受け。3番手に平原,5番手に浅井,6番手に村上,7番手に太田,最後尾に郡司で周回。残り2周のホームで村上が上昇。山崎は引いて村上が誘導の後ろに。太田は村上に続いてそのまま村上の後ろ。郡司が上昇すると村上が迎え入れるような形で誘導の後ろは郡司に。バックから打鐘にかけ,太田がペースを落としたために,2番手の村上と3番手の太田の差が大きく開いていきました。残り1周のホームで誘導が退避。太田はここから仕掛けていきましたが郡司も踏んだため,太田は内に斬り込み,村上と接触。村上は落車し,太田も車体故障を起こして脱落。ホームを回ると山崎が仕掛け,バックで郡司の前に。離れそうだった山田も何とか続きました。太田が脱落していたため郡司の後ろになっていた清水が山田にスイッチ。直線の手前で山田を弾いて山崎を捕えました。そこに後方で前の動きをすべて見ていた平原が外から強襲。フィニッシュ前で清水を差して優勝。清水が4分の1車輪差で2着。平原の外から伸びた浅井が1車輪差で3着。
                                    
 優勝した埼玉の平原康多選手は5月の京王閣記念以来の優勝。ビッグは昨年2月の全日本選抜競輪以来の9勝目。共同通信社杯は初優勝。このレースは単騎の選手が3人いて,その3人がそれぞれ有力視できるような脚力も備えていたので,予想は困難でした。太田が打鐘前のバックでペースを落としたところをみると,よほど先行するのは嫌だったのでしょう。郡司が山田をどかせれば有利になりましたが,山田が番手を死守。このために自力がある清水に展開は向きました。あれでさらに後ろだった平原に差されてしまったのは,現状の実力の差というほかありません。あまり動かずに最も落ち着いてレースをしたのは平原だったとはいえ,そこが勝因になったと思います。

 5月10日,木曜日。妹を迎えに行きました。翌日に妹の通院があったためです。
 5月11日,金曜日。妹の歯科検診でした。予約は午後3時。この日もクリーニングだけでしたが,歯がよく磨けていると担当の歯科助手から褒められました。妹に聞いてみますと,グループホームでも通所施設でも,自身で歯を磨いた後に職員にみてもらい,磨き残したところがあれば落としてもらっているとのことでした。このためによく磨けていたのだと思います。グループホームの職員とは連絡帳でやり取りをしていますので,このことについてはお礼をしておきました。診察はさほど時間を要さなかったのですが,精算は90人ほどが待っている状態で,かなり待たされました。このために帰宅したのは午後5時15分になりました。
 母はこの日からワンデュロパッチの使用を開始しました。これは処方された飲む鎮痛剤の残量が少なくなってきたからです。水で濡らすことは好ましくないという使用上の注意がありましたので,貼ったのはこの日の夜に風呂を出てからでした。効果は24時間ですから,毎日,ほぼ同じ時間に貼り換える必要があります。入浴する時間はほぼ一定なので,入浴前に剥がして入浴後に貼るというのが,この日以降の母の日課となりました。この貼付薬については,基本的に母自身が貼ったり剥がしたりしていました。なお,母はこの後で下痢をするようになったとのことですし,13日の日曜から15日の火曜までは体調不良という状態を自覚していました。実際に母が残したノートも,13日から15日までの分は15日にまとめて書かれています。ただこの体調不良がワンデュロパッチの副作用であったのかどうかは分かりません。痛みを感じたら鎮痛剤を飲むという状態に比べたら,楽であるというようには感じていたようです。
 5月14日,月曜日。妹を送りました。午後2時ごろにKさんが来訪し,しばし母と話をして帰りました。
 5月15日,火曜日。ロサンゼルスの伯母が来日しました。僕の家に到着したのは午後7時40分でした。これは母の依頼による来日で,翌日から帰国前日までは伯母が家事のほとんどを担当しました。

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