「小石のように」や「タクシー ドライバー」そして「狼になりたい」が収録されているアルバムのタイトルが「親愛なる者へ」となっているのは,このアルバムの最後の楽曲が「断崖―親愛なる者へ―」であることと関係しています。このアルバムが発売されたのは1979年3月21日で,「断崖―親愛なる者へ―」のアレンジは福井峻でした。
1992年に7月からフジテレビで「親愛なる者へ」というドラマの放映が始まりました。このドラマの主題歌は「浅い眠り」で,カップリングが「親愛なる者へ」。瀬尾一三によるアレンジです。この曲は途中でリズムが変わりますが,変わる部分も新しくなっていて,歌詞にも少しだけ変更があります。タイトルも微妙に違うので別の楽曲ともいえますが,僕の好みは「親愛なる者へ」の方です。
風は北向き
心の中じゃ朝も夜中もいつだって吹雪
これが冒頭部分。北向きの風は南から吹くのでこの風は南風です。「春」がひとつのモチーフとされているので,風向きには意味があります。ただこのように歌われると北風が吹いているような印象を抱いてしまいそうな気もします。
さらにこの曲には両義的に受け止められそうな部分も僕には含まれていました。
生きる手だてはあざないものと
肩をそらして風を受けながら
いま崩れゆく崖の上に立ち
流し目を使う 昔惚れてくれた奴に なさけないね
これは,このような状況で以前に惚れてくれた人に対して流し目を使うなんて情けない,という意味であろうと思われます。ですが,この状況でだれかに流し目を使っている自分は,以前に惚れてくれた人に対して情けない,という意味でもあり得なくないでしょう。僕は後者の意味に解してしまったこともありました。
だけどだけどだけど
死んでも春の服を着るよ
そうさ寒いとみんな逃げてしまうものね
ここがラストで歌詞に若干の変更が加えられている部分です。「だけど」が3度も繰り返されるのがその変更点です。この繰り返しはあった方がいいと僕は感じます。
第三種の認識cognitio tertii generisによって個物res singularisの本性essentiaを認識するとき,それは様態的変状modificatioに様態化した神Deusを認識することと僕は解します。このゆえに個物の認識と神の認識を等置することができます。そしてこのことを根拠に,個物への愛amorと神への愛も等置できると僕はいいました。ですが,認識と愛との関係は,これとは違った仕方で解することもできます。なぜなら第三部諸感情の定義六にあるように,愛とは外部の原因の観念を伴った喜びLaetitia, concomitante idea causae externaeであるので,もし第三種の認識によってある個物が認識され,それが認識されたということによって喜びを感じるということであれば,それはその個物の観念が外部の原因の観念であるとみることもできるからです。もちろんこの観念はさらなる原因として絶対に無限absolute infinitumである神の観念を必然的に含んでいるので,これを神に対する愛ではないということはできないでしょう。ですがこの点を考慮の外に置くならば,この喜び自体は神に対する愛ではなく個物に対する愛であるということができないわけではありません。
よって,認識の場合には飛躍は第二種の認識cognitio secundi generisと第三種の認識の間にあると僕は解しますが,神に対する愛の場合には,絶対に無限である神と限りにおける神との間に飛躍があるとみることも不可能ではありません。そしてこの見方は,『スピノザ哲学論攷』における河井の見方と同様でもあるので,ここからはこの間の飛躍として展開していくことにします。これはこのように分節した方が,ここからの僕の考え方の説明の理解も容易になるであろうという理由も含んでいるとお考え下さい。
この前提に従うならば,スピノザが聖書のうちにあるとみなしたふたつの教えのうち,神を愛せということは,絶対に無限な神を愛せという意味になります。これに対して隣人を愛せということは,限りでの神,より厳密にいうなら現実的に存在するある人間という様態的変状に様態化した限りでの神,ないしは現実的に存在するある人間という様態modiに変状した限りでの神を愛せという教えであるということになります。このとき,どちらが現実的に存在する人間にとって倫理的に有益であるのかといえば,それは後者ではないかと僕は思うのです。
1992年に7月からフジテレビで「親愛なる者へ」というドラマの放映が始まりました。このドラマの主題歌は「浅い眠り」で,カップリングが「親愛なる者へ」。瀬尾一三によるアレンジです。この曲は途中でリズムが変わりますが,変わる部分も新しくなっていて,歌詞にも少しだけ変更があります。タイトルも微妙に違うので別の楽曲ともいえますが,僕の好みは「親愛なる者へ」の方です。
風は北向き
心の中じゃ朝も夜中もいつだって吹雪
これが冒頭部分。北向きの風は南から吹くのでこの風は南風です。「春」がひとつのモチーフとされているので,風向きには意味があります。ただこのように歌われると北風が吹いているような印象を抱いてしまいそうな気もします。
さらにこの曲には両義的に受け止められそうな部分も僕には含まれていました。
生きる手だてはあざないものと
肩をそらして風を受けながら
いま崩れゆく崖の上に立ち
流し目を使う 昔惚れてくれた奴に なさけないね
これは,このような状況で以前に惚れてくれた人に対して流し目を使うなんて情けない,という意味であろうと思われます。ですが,この状況でだれかに流し目を使っている自分は,以前に惚れてくれた人に対して情けない,という意味でもあり得なくないでしょう。僕は後者の意味に解してしまったこともありました。
だけどだけどだけど
死んでも春の服を着るよ
そうさ寒いとみんな逃げてしまうものね
ここがラストで歌詞に若干の変更が加えられている部分です。「だけど」が3度も繰り返されるのがその変更点です。この繰り返しはあった方がいいと僕は感じます。
第三種の認識cognitio tertii generisによって個物res singularisの本性essentiaを認識するとき,それは様態的変状modificatioに様態化した神Deusを認識することと僕は解します。このゆえに個物の認識と神の認識を等置することができます。そしてこのことを根拠に,個物への愛amorと神への愛も等置できると僕はいいました。ですが,認識と愛との関係は,これとは違った仕方で解することもできます。なぜなら第三部諸感情の定義六にあるように,愛とは外部の原因の観念を伴った喜びLaetitia, concomitante idea causae externaeであるので,もし第三種の認識によってある個物が認識され,それが認識されたということによって喜びを感じるということであれば,それはその個物の観念が外部の原因の観念であるとみることもできるからです。もちろんこの観念はさらなる原因として絶対に無限absolute infinitumである神の観念を必然的に含んでいるので,これを神に対する愛ではないということはできないでしょう。ですがこの点を考慮の外に置くならば,この喜び自体は神に対する愛ではなく個物に対する愛であるということができないわけではありません。
よって,認識の場合には飛躍は第二種の認識cognitio secundi generisと第三種の認識の間にあると僕は解しますが,神に対する愛の場合には,絶対に無限である神と限りにおける神との間に飛躍があるとみることも不可能ではありません。そしてこの見方は,『スピノザ哲学論攷』における河井の見方と同様でもあるので,ここからはこの間の飛躍として展開していくことにします。これはこのように分節した方が,ここからの僕の考え方の説明の理解も容易になるであろうという理由も含んでいるとお考え下さい。
この前提に従うならば,スピノザが聖書のうちにあるとみなしたふたつの教えのうち,神を愛せということは,絶対に無限な神を愛せという意味になります。これに対して隣人を愛せということは,限りでの神,より厳密にいうなら現実的に存在するある人間という様態的変状に様態化した限りでの神,ないしは現実的に存在するある人間という様態modiに変状した限りでの神を愛せという教えであるということになります。このとき,どちらが現実的に存在する人間にとって倫理的に有益であるのかといえば,それは後者ではないかと僕は思うのです。
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