スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王座戦&自由と強制

2017-09-21 19:16:46 | 将棋
 19日に大阪市で指された第65期王座戦五番勝負第二局。
 羽生善治王座の先手で相掛かり。ただ,先手が飛車先をなかなか交換しなかったので,後手が先に交換して縦歩取りに進みました。先手がわずかに動きすぎてしまったようで,中盤は先手としてはつまらない将棋にしてしまったのではないかという印象が否めませんでした。
                                     
 先手が2二に歩を打って後手が桂馬を逃げた局面。ここで先手は☗7三角成☖同金☗4四飛の二枚換えに進めました。清算があったというより止むを得なかったということではないかと思います。
 後手は☖2六角と打って☗4九飛と逃げたのに対して☖3七角成とかなり強気な手順に進めました。先手の攻めは受け切れるという判断だったと思われますが,これはあまりよくなく,ここは先手にチャンスが来ていたようです。
 まず☗4四桂と打って☖2二金と逃げさせて☗8五桂と跳ねました。これは手広く攻める意図ですが,選択の幅が広がったことがかえって先手には悪い結果を生じさせることとなってしまいました。後手はここも☖7二金と逃げています。
 ☗2四歩☖同歩☗2三香はこの形では最も厳しい攻め。ここでも後手は☖1二金と頑張るほかありません。
 ここで桂馬を跳ねたのを生かして☗7三銀と打ったのですがこの手が敗着に。むしろ☗2一銀と打っておけば先手に有望な変化も残っていたようです。両取りを無視してすかさず☖4三歩と打たれ☗8四銀成☖4四歩で拠点の桂馬を外された局面は,飛車1枚では攻めが繋がらなくなっていました。
                                     
 中村六段が連勝。第三局は来月3日です。

 紹介状に関連する不合理については,別の観点からいっておきたいことがあります。
 第一部定義七から分かるように,スピノザの哲学では自由libertasと強制が対義語関係を構築します。ただし,人間にとっての自由,僕がいう人間的自由はこの定義Definitioでいわれている自由と異なります。この定義でいわれる自由は,人間的自由に対していえば神的自由であると解さなければなりません。
 しかしスピノザは,この定義でいわれている自由ではない,というのはこの定義でいえばむしろ強制に該当するといってもいいのですが,そのような人間的自由なるものも認めています。これは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の冒頭で,スピノザが哲学する自由といういい方をしていることから明白でしょう。ここでいわれる哲学をするのは人間なのですから,これは当然ながら人間的自由でなければならないからです。そしてスピノザは,この人間的自由は絶対に守らなければならないものであるといいます。
 人間的自由というものがあるなら,人間的強制というものもある筈です。このとき,自由に選択できるのに選択されていないからといって拒絶するのは,人間的自由があるときに人間的強制が存在しないから拒絶するというのと同じことであると僕は考えるのです。いい換えればこのような態度は,人間的自由を自ら放棄し,人間的強制を希求するような態度なのです。
 人間的自由が守られなければならないのは,それはある人間に対して人間的強制をする者から守らなければならないということだけを意味するのではありません。『神学・政治論』における能動的自由受動的自由に関連する論考は,すべてそのような方面から書かれているといえるでしょう。それはおそらく,スピノザにとって哲学する自由は守られなければならないことであり,しかし実際にそれを否定しあるいは非難する勢力が存在していたからだと思われます。
 ところが僕たちはこれとは逆に,自ら人間的自由を避け人間的強制を好む場合があるのです。そしてそれもまた人間的自由の危機なのです。人間的自由を守らなければならないのなら,人間的自由があるときにはそれを行使しなければならないのです。

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