スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

神的自由&完全性の移行

2015-03-14 19:48:39 | 哲学
 『神学・政治論』を簡潔に紹介したときに述べたように,スピノザがこの著書を通じて主張したかったことは,哲学する自由は国家や宗教の安寧を危うくすることではなく,むしろそれが守られなければ,国家も宗教も危機に瀕することになるということでした。ただ,そこで哲学する自由という語句で表されている事柄は,スピノザの哲学から帰結する,特異ともいえるような独自性を有していると僕には思えます。そこで何回かにわたって,これに関連する僕の考えを表明することにします。
                         
 まず,人が哲学する自由が守られなければならないということを主張するためには,人にはそうした自由があるということを前提しなければなりません。ところが,実際にはスピノザの哲学では,少なくとも一般的な意味での自由,すなわち意志と直結するような自由は人には認められていません。さらにいうなら第一部定理三二系一から分かるように,そういう自由は神にすら認められていないのです。
 第一部定義七が示しているのは,自身の本性の法則によって存在と働きに決定されるものが自由であるということです。第一部定理七から,実体は少なくとも存在に関しては自由であることが理解できます。そして第二部定理一〇では,人間が実体ではないことが明らかにされています。よって人間には一切の自由が認められないことになります。つまり哲学する自由を,第一部定義七のように解したところで,人間にはそうした自由が認められていないことになるのです。いい換えれば,哲学する自由といわれる場合の自由というのは,第一部定義七でいわれているような自由とも異なった何かなのです。
 第一部定義七の自由に関していえば,第一部定理一一第一部定理一七から,神は自由であることが理解できます。そして第一部定理一七系二から,この意味において自由であるのは神だけであるということも分かります。そこでこの自由を、哲学する自由といわれる場合の自由と区別するために,神的自由と名付けておきましょう。哲学する自由は神的自由ではありません。いわば人間的自由なのです。

 完全性の移行は,テクストの文面からは,量と質の両面から解釈できます。僕はかねてより,質的な意味で解するのが妥当であると考えてきました。現在はさらにその意を強くしています。第二部定理一二の新しい意味を導入しているからです。
 この定理で精神を構成する観念対象ideatumの「中に起こること」というのは,ideatumの本性に変化をもたらす事象であると考えなければ,新しい意味が成立しません。そして同時に,そうした事象がideatumに生じたならば,精神はそれを認識するということを肯定しなければなりません。
 第二部定理一三により,ライプニッツの精神のideatumはライプニッツの身体です。そこでもしもライプニッツの身体がより大なる完全性からより小なる完全性に移行するということが生じたとき,これによってライプニッツの身体の本性に一切の変化がもたらされないと仮定すると,ライプニッツはそれを認識しないことになります。いい換えれば第三部諸感情の定義三により,ライプニッツは一切の悲しみを知覚しないということになります。しかしこうしたことを主張するのはそれ自体で不条理であるといってよいでしょう。このことはライプニッツにだけ妥当するわけでなく,すべての人間に妥当するのですから,すべての人間が悲しみを知覚しないといっているのと同じだからです。もちろん悲しみだけではありません。喜びも知覚しないということになります。
 要するに,ライプニッツが悲しみを知覚し得るのは,そのときにライプニッツの身体に,そして身体と同一個体である精神に,本性の変化が現実的にもたらされているからだと考えなくてはならないのです。したがって,より大なる完全性を有するライプニッツと,より小さな完全性を有するライプニッツとは,本性が異なるふたつのライプニッツであると考えなければならないことが帰結します。すなわち,ライプニッツが悲しみを感じ,また喜びを感じるそのたびごとに,本性が異なる無数のライプニッツが現実的に存在するというように考えなければなりません。人が現実的に存在する限り,様態的に区別できる無数の人が存在するのです。
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