書簡四十九を読む限り,スピノザがグレフィウスJohann Georg Graeviusに対して一定の信頼を置いたのは間違いないといえます。ただ,『スピノザ往復書簡集Epistolae』の日本語版の解説で畠中尚志が触れているように,思想的にみればグレフィウスはスピノザと対立的でした。書簡四十二でフェルトホイゼンLambert van Velthuysenがスピノザのことを無神論者とみなしたように,グレフィウスもスピノザを無神論者と解していたのです。その理由となったのはやはりフェルトホイゼンと同じで,匿名で出版されていた『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/9c/f8e3431f5047de92ab5ddef338e2cff9.jpg)
スピノザとグレフィウスがユトレヒトで会見したのは1673年の夏のことです。『神学・政治論』が出版されたのは1670年です。フェルトホイゼンがそれをきちんと読んだということは明らかですが,グレフィウスがその内容を詳しく言及したという資料を僕は知らないので,フェルトホイゼンと同じ態度で読んだかどうかは分かりませんが,まったく読んでいないということはなかったと思います。そしてこの本についてグレフィウスは,1671年の4月にライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに宛てて書簡を送っています。
グレフィウスはその手紙の中で,『神学・政治論』のことを悪疫のようにきわめて有害な本であるといっています。ただこの書簡の中では『神学・政治論』が,Discursus Theologico Politicusと表記されているらしく,このあたりが本当にグレフィウスがそれを読んだといえるのかどうかに疑念を感じさせます。さらにグレフィウスはこの本の著者はスピノザという名のユダヤ人といわれていると書いています。
このように書いたということは,少なくともこの時点でグレフィウスとスピノザは会ったことがなかったことになります。スピノザという名のユダヤ人,といういい方はそう解するのが適切だからです。なのでたぶんふたりはユトレヒトで初めて会ったのでしょう。そしてスピノザは,グレフィウスが自分を無神論者とみなしているということは,知らなかったのかもしれません。
僕の考えでは,第五部定理四は第二部定理三八系を補強する役割を果たし得ます。すでに述べたように,第五部定理四の意味のうちに,明瞭判然たる概念といういい方で,共通概念notiones communesが念頭に置かれているからです。したがって定理Propositioでいわれている身体的変状,これをここでは身体corpusの刺激状態と解していますが,現実的に存在するある人間の身体が何らかの仕方で刺激されるなら,その人間の精神mens humanaは必然的に共通概念を形成するということが帰結すると僕は考えます。
この場合だと,第五部定理四は成立するけれども第二部定理三八系は必ずしも成立しないと主張するためには,ひとつの方法しかないように僕には思えます。それは現実的に存在する人間の身体が一切の刺激を受けない場合があると主張することです。しかしこのことは『エチカ』の中で明確に否定されています。岩波文庫版の117ページの第二部自然学②要請三がその根拠となるでしょう。つまり第五部定理四のうちには,現実的に存在するすべての人間の精神のうちに,何らかの共通概念が存在するということが含まれていると僕は考えます。
人間の身体の刺激状態とは,現実的に存在する人間の身体が,何らかの外部の物体corpusによって刺激されている状態のことを意味します。これが生じるとき,第二部定理一七により,その人間の精神は自分の身体を刺激している外部の物体が現実的に存在すると知覚します。すなわち外部の物体を表象します。また第二部定理一九によって自分の身体を表象します。そして第二部定理二三によって自分の精神をも知覚します。しかしこれらの表象像imaginesはいずれも混乱した観念idea inadaequataです。第五部定理四のいい方に倣えば,明瞭判然たる観念ではありません。それを示しているのが第二部定理二八です。
「人間身体の変状の観念は,単に人間精神に関連している限り,明瞭判然たるものではなく,混乱したものである」。
この定理における明瞭判然が,十全adaequatumであるあるいは真verumであると同じ意味であることは,それが明瞭判然ではなくて混乱している,といわれていることから明白でしょう。第五部定理四は,この第二部定理二八も意識していわれているのかもしれません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/9c/f8e3431f5047de92ab5ddef338e2cff9.jpg)
スピノザとグレフィウスがユトレヒトで会見したのは1673年の夏のことです。『神学・政治論』が出版されたのは1670年です。フェルトホイゼンがそれをきちんと読んだということは明らかですが,グレフィウスがその内容を詳しく言及したという資料を僕は知らないので,フェルトホイゼンと同じ態度で読んだかどうかは分かりませんが,まったく読んでいないということはなかったと思います。そしてこの本についてグレフィウスは,1671年の4月にライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに宛てて書簡を送っています。
グレフィウスはその手紙の中で,『神学・政治論』のことを悪疫のようにきわめて有害な本であるといっています。ただこの書簡の中では『神学・政治論』が,Discursus Theologico Politicusと表記されているらしく,このあたりが本当にグレフィウスがそれを読んだといえるのかどうかに疑念を感じさせます。さらにグレフィウスはこの本の著者はスピノザという名のユダヤ人といわれていると書いています。
このように書いたということは,少なくともこの時点でグレフィウスとスピノザは会ったことがなかったことになります。スピノザという名のユダヤ人,といういい方はそう解するのが適切だからです。なのでたぶんふたりはユトレヒトで初めて会ったのでしょう。そしてスピノザは,グレフィウスが自分を無神論者とみなしているということは,知らなかったのかもしれません。
僕の考えでは,第五部定理四は第二部定理三八系を補強する役割を果たし得ます。すでに述べたように,第五部定理四の意味のうちに,明瞭判然たる概念といういい方で,共通概念notiones communesが念頭に置かれているからです。したがって定理Propositioでいわれている身体的変状,これをここでは身体corpusの刺激状態と解していますが,現実的に存在するある人間の身体が何らかの仕方で刺激されるなら,その人間の精神mens humanaは必然的に共通概念を形成するということが帰結すると僕は考えます。
この場合だと,第五部定理四は成立するけれども第二部定理三八系は必ずしも成立しないと主張するためには,ひとつの方法しかないように僕には思えます。それは現実的に存在する人間の身体が一切の刺激を受けない場合があると主張することです。しかしこのことは『エチカ』の中で明確に否定されています。岩波文庫版の117ページの第二部自然学②要請三がその根拠となるでしょう。つまり第五部定理四のうちには,現実的に存在するすべての人間の精神のうちに,何らかの共通概念が存在するということが含まれていると僕は考えます。
人間の身体の刺激状態とは,現実的に存在する人間の身体が,何らかの外部の物体corpusによって刺激されている状態のことを意味します。これが生じるとき,第二部定理一七により,その人間の精神は自分の身体を刺激している外部の物体が現実的に存在すると知覚します。すなわち外部の物体を表象します。また第二部定理一九によって自分の身体を表象します。そして第二部定理二三によって自分の精神をも知覚します。しかしこれらの表象像imaginesはいずれも混乱した観念idea inadaequataです。第五部定理四のいい方に倣えば,明瞭判然たる観念ではありません。それを示しているのが第二部定理二八です。
「人間身体の変状の観念は,単に人間精神に関連している限り,明瞭判然たるものではなく,混乱したものである」。
この定理における明瞭判然が,十全adaequatumであるあるいは真verumであると同じ意味であることは,それが明瞭判然ではなくて混乱している,といわれていることから明白でしょう。第五部定理四は,この第二部定理二八も意識していわれているのかもしれません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます