「タクシー ドライバー」の優れた点として,タクシーの運転手と乗車した女との間に絶妙の距離感があると感じられるようになっているところがあげられると僕は感じています。女は泣いていて,けれどもなぜ泣いているのかということには触れられたくありません。しかし運転手から無視されるということも望んでいません。運転者は泣き顔については見て見ぬふりをしますが,かといって乗車してきた女を放置してしまうというわけではなく,野球の話や天気予報の話など,このときの女にとっては他愛もないといっていいような話題で話しかけます。女はそう望んでいるのであり,運転手はその望みを理解しているのです。したがってここには,単なることばの上での会話を上回るようなコミュニケーションが成立しているのです。
このときの女の気持ちとして適切であると思える歌詞が,これとは別の歌の中にあります。それが「風にならないか」です。
自由になりたくて孤独になりたくない
放っておいてほしい 見捨てないでほしい
これは「風にならないか」の二番の冒頭部分です。異なる主題の歌ですから,ことば自体が全体の中で有している意味を「タクシー ドライバー」に出てくる女にそのまま当て嵌めることはできません。ですが1行目はともかく,2行目は,女が運転手に対して抱いている感情そのものではないかと思えるのです。
放っておいてほしいけれども見捨てないでほしいというのは,それ自体でみたなら単なる我儘と思えなくもありません。けれどもこのような情念が存在することを,僕はリアルなものとして理解できるのです。だからそのような,我儘と思えなくもない情念に対して適切に対処する運転手は素晴らしい人間であると思えるのです。
このようなコミュニケーションが,それ自体のことばとして歌われるのではなく,具体的な出来事として歌われているという点が,「タクシー ドライバー」が僕を惹きつける最大の要素になっているのかもしれません。放っておいてほしいとか捨てていっていいとかいうのは,実はSOSであることも多いのではないでしょうか。
ここまでのことを前提として,ここからは僕が『エチカ』において問題ではないかと思っている飛躍について考察していきます。
スピノザは第五部定理四で,人間の精神mens humanaはどのような身体的変状についても何らかの明瞭判然たる概念を形成することができるといっています。この定理Propositioが手始めになるので,まずはこの定理をどのように解するかを説明します。
まず,ここでいわれている身体的変状は,このブログでいるところの身体の変状corporis affectionesすなわち身体の刺激状態の観念ideaとも解せますし,観念ではなくて身体の刺激状態そのもののことと解することもできます。これはどちらに解しても構いませんが,分かりやすくするために,ここでは身体の刺激状態そのもののこととしておきます。
次に,ここで明瞭判然な概念といわれるときの明瞭判然は,真verumであるあるいは十全adaequatumであるということと同じだと解します。スピノザが観念を明瞭判然と形容するときには,必ずしも十全であるということを意味するとは限りません。観念の明瞭さあるいは同じことですが判然さに度合があって,同じように混乱した観念idea inadaequataでも,ある混乱した観念より明瞭判然とした混乱した観念があるからです。逆にいえば,混乱の度合というものがあるのであって,この例の場合でいえば,前者は後者より混乱の度合が高い観念であることになるのです。ですがこの定理でいわれている明瞭判然は,そのような意味ではあり得ません。
スピノザはこの定理では,明瞭判然たる観念とはいわずに明瞭判然たる概念といっています。これは,スピノザがここで共通概念notiones communesを念頭に置いているからです。これはスピノザがこの定理を論証するときに,第二部定理三八に訴求していることから明白であるといわなければなりません。いい換えればここでいわれている明瞭判然たる概念というのは共通概念のことなのであって,たとえば自分の身体corpusの観念とか自分の身体を刺激する外部の物体corpusの観念ということではありません。
ここでの考察に関係するのはこれだけですが,この定理はこのこととは別に,ある重要なこともいっていると思いますので,そのことも簡単に探求しておくことにします。
このときの女の気持ちとして適切であると思える歌詞が,これとは別の歌の中にあります。それが「風にならないか」です。
自由になりたくて孤独になりたくない
放っておいてほしい 見捨てないでほしい
これは「風にならないか」の二番の冒頭部分です。異なる主題の歌ですから,ことば自体が全体の中で有している意味を「タクシー ドライバー」に出てくる女にそのまま当て嵌めることはできません。ですが1行目はともかく,2行目は,女が運転手に対して抱いている感情そのものではないかと思えるのです。
放っておいてほしいけれども見捨てないでほしいというのは,それ自体でみたなら単なる我儘と思えなくもありません。けれどもこのような情念が存在することを,僕はリアルなものとして理解できるのです。だからそのような,我儘と思えなくもない情念に対して適切に対処する運転手は素晴らしい人間であると思えるのです。
このようなコミュニケーションが,それ自体のことばとして歌われるのではなく,具体的な出来事として歌われているという点が,「タクシー ドライバー」が僕を惹きつける最大の要素になっているのかもしれません。放っておいてほしいとか捨てていっていいとかいうのは,実はSOSであることも多いのではないでしょうか。
ここまでのことを前提として,ここからは僕が『エチカ』において問題ではないかと思っている飛躍について考察していきます。
スピノザは第五部定理四で,人間の精神mens humanaはどのような身体的変状についても何らかの明瞭判然たる概念を形成することができるといっています。この定理Propositioが手始めになるので,まずはこの定理をどのように解するかを説明します。
まず,ここでいわれている身体的変状は,このブログでいるところの身体の変状corporis affectionesすなわち身体の刺激状態の観念ideaとも解せますし,観念ではなくて身体の刺激状態そのもののことと解することもできます。これはどちらに解しても構いませんが,分かりやすくするために,ここでは身体の刺激状態そのもののこととしておきます。
次に,ここで明瞭判然な概念といわれるときの明瞭判然は,真verumであるあるいは十全adaequatumであるということと同じだと解します。スピノザが観念を明瞭判然と形容するときには,必ずしも十全であるということを意味するとは限りません。観念の明瞭さあるいは同じことですが判然さに度合があって,同じように混乱した観念idea inadaequataでも,ある混乱した観念より明瞭判然とした混乱した観念があるからです。逆にいえば,混乱の度合というものがあるのであって,この例の場合でいえば,前者は後者より混乱の度合が高い観念であることになるのです。ですがこの定理でいわれている明瞭判然は,そのような意味ではあり得ません。
スピノザはこの定理では,明瞭判然たる観念とはいわずに明瞭判然たる概念といっています。これは,スピノザがここで共通概念notiones communesを念頭に置いているからです。これはスピノザがこの定理を論証するときに,第二部定理三八に訴求していることから明白であるといわなければなりません。いい換えればここでいわれている明瞭判然たる概念というのは共通概念のことなのであって,たとえば自分の身体corpusの観念とか自分の身体を刺激する外部の物体corpusの観念ということではありません。
ここでの考察に関係するのはこれだけですが,この定理はこのこととは別に,ある重要なこともいっていると思いますので,そのことも簡単に探求しておくことにします。
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