スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

イエスとパウロ&第三段階

2014-01-17 19:30:26 | 哲学
 ニーチェの反キリストが,反キリストあるいは反キリスト教なのであり,反イエスではなかったというのは,僕の基本的なニーチェの思想の理解です。ニーチェはキリスト教を広めた人物としてパウロのことを激しく非難している一方で,主に共観福音書に記されている人間としてのイエスの行動そのものに対してはあまり言及していません。言及していないのですから,それを評価しているとはいえないかもしれませんが,パウロのようにはイエスのことを批判することはできなかったとも思えるのです。
                         
 僕の理解のように,人間としてのイエスについては評価をし,パウロに対しては批判的な態度をとるというのは,実はスピノザのうちにも存在した考え方だったのではないかと僕は睨んでいます。
                         
 スピノザは第二部定理一七系で,Aという人間が存在しなくなっても,要するにAという人間が死んだとしても,Bという人間が生きているなら,BのうちにはAの表象像が出現し得る,すなわちBはAを,現実的に存在すると観想し得るという意味を含む事柄を証明しました。第二部定理一六系二により,Bの表象像は,Aの本性よりもBの身体の状態をより多く示す混乱した観念だからです。
 第二部定理一七系の直後の備考で,スピノザはパウロという名前を出しています。パウロの中にあるペテロの観念は,ペテロの本性よりもパウロの身体の状態をより多く含むのだから,パウロの身体のこの状態が持続する限り,ペテロが存在しなくてもパウロはペテロが現実的に存在すると知覚するという仕方で,直前の系を説明しているのです。
 スピノザはペテロといって,イエスとはいっていません。しかし本当はイエスといいたかった筈だと僕には思えるのです。そもそも新約聖書の中でパウロがイエスの復活,つまり死後のイエスがパウロの目の前に現れたということを何度も述べていることからして,ここでスピノザがわざわざパウロの名前を出していること自体,その言説をターゲットにしているとしか僕には考えられません。
 そうだとすれば,少なくともスピノザは,パウロはイエスの表象像,すなわち混乱した観念を,十全な観念であると思い込んだのだと主張していることになります。あるエピソードからして,スピノザはニーチェのようにはキリスト教自体を否定していなかったのは間違いありません。しかしパウロに対する批判的精神は,スピノザのうちにもあったと僕は思っているのです。

 自然のうちに存在するすべての因果関係が,必然的であると仮定してみます。これによって強い意味が成立するかというと,必ずしもそうとはいえないと思います。その点をつくのが第三段階の疑問です。
 ここではふたつの因果関係だけを抽出します。原因Aから結果Bが発生する因果関係と,原因Cから結果Dが発生する因果関係です。仮定により,この関係は必然的です。すなわちAからはBだけが発生しますし,BはAからのみ発生します。CとDの間にある関係もこれと同様です。そこでこれをA→B,そしてC→Dという記号で示すことにします。
 このとき,AとCを同じような意味で原因と表現すること,またBとDを同じような意味で結果と表現することは問題ありません。確かにそれら二組は,同じような性質を有しているといえるからです。そしてこのことは,ここで記号化したよっつ以外のどんな場合の因果関係をとってみても妥当します。このゆえに,原因なるもの,そして結果なるものは,一般的に知性によって把握され得ることになります。いい換えれば,個々の原因の総体を原因と,またそこから発生する各々の結果の総体を結果と認識することが可能になり,またその認識が妥当であるといい得るのです。
 ところが→の部分に関しては,このことがそのまま妥当するとは必ずしもいいきれません。A→BとC→Dは,同じように→によって記号化こそされていますが,だからといってそれが同じように一般化されるとはいえないからです。少なくともA→Bの→と,C→Dの→が,異なった内容を有することは明白です。いい換えればそれらは代替可能な→ではあり得ません。なぜなら,強い意味が示しているのは,一定の原因からは一定の結果のみが生じ,その関係が必然的であるといわれるのですから,Bを発生させる→と,Dを発生させる→とが,入れ替えても成立するのなら,その関係はむしろ必然的ではないといわなければならず,結果的に強い意味は虚偽ないしは誤謬であるということになってしまうからです。
 自然のうちに存在する因果関係の数だけ,→で示されるべき記号の数も存在します。その→を一般的な意味で必然性と一括りにするのは,スピノザの哲学における一般性と特殊性の関係からして,悪しき一般化なのではないでしょうか。

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