昨日から越後長野温泉で指された第30期竜王戦七番勝負第四局。
渡辺明竜王の先手で相矢倉。先手の早囲いに後手の羽生善治棋聖から動いていく将棋に。中盤の戦いになってから先手が無理をしているように僕には思えましたので,後手が作戦勝ちをしていたのかもしれません。その後,7筋に飛車を回ったあたりでは後手が優位に立っていたのではないでしょうか。そして最後に驚異的と感じられるような寄せが炸裂しました。
後手が7六の金を取って王手をしたのに対して後手が歩を合駒し,飛車がひとつ寄って先手が銀を打った局面。ここで☖8八金☗6八王と決めてから☖6五飛と桂馬を取って☗3四銀と角を取らせました。厳密にいうと角を取るところでは変化するべきだったのかもしれませんが,先手の手順は自然であるようには思えます。
☖6六歩☗5六銀と拠点を作ってから取った桂馬を☖3六桂と打ちます。☗6五銀は先に☖6七金と打たれてから飛車を取られて負けなので☗3八飛はこの一手。そして今度は角を取らせた銀を☖3四銀と入手して☗6五銀に☖4八銀と打ちます。この局面で先手の勝ちになっているようです。
☗4四香☖4三銀の王手を利かせてから☗4八飛☖同桂成☗5七王で上部脱出を狙いますが今度は取った飛車を☖6八飛と打つのが妙手。
第1図で持ち駒を☖8八金と打ってしまうのは,右側に逃げられた場合に働かなくなる可能性がある異筋の手なので,第2図までは想定の上で打ったのは間違いないと推測できます。ここまで見事に一連して流れる寄せの手順というのはそうそうお目にかかれないのではないでしょうか。
羽生棋聖が勝って3勝1敗。第五局は来月4日と5日です。
第二部定理七系から分かるのは,知性intellectusのうちに客観的にすなわち観念ideaとして有であるものは,その対象が知性の外に形相的な有として実在するということです。したがって,Aの観念が客観的有esse objectivumであれば,Aは形相的有esse formaleとしても知性の外に実在していることになります。スピノザはこうした客観的有のことを観念というのです。これでみれば分かるように,実際には無といわなければならないような思惟の様態cogitandi modiがある,無についてそれをあるというのは語弊がありますが,どういういい回しをしたらよいか分からないので無といわれる思惟の様態があるといいますが,この場合にはその思惟の様態は観念とはいい得ないことになります。第一部定義三は実体substantiaの定義Definitioで,実体は実在しますから,僕たちは実体の観念を有することはできます。しかし複数の実体は実在しないので,僕たちが『エチカ』の諸定理の中で複数の実体が存在するのでなければ実際は無について何事かを述べている論証Demonstratioについて,それを十全に認識し得るのは,純粋な知的操作によっています。あるいは,精神の能動actio Mentisから生じる思惟の様態は,その思惟の様態の本来的特徴denominatio intrinsecaを十全に表現するexprimereといういい方が可能であるとすれば,それは僕たちの精神の能動に依拠しているのです。
このように,僕たちが純粋な知的操作によって何事かを把握するとき,それが有であるならその思惟の様態は観念であるといい得ることになりますが,無である場合には観念とはいわれ得ません。そしてそうした思惟の様態については理性の有entia rationisといわれることになります。いい換えれば理性の有とは,その対象を形相的には有さない十全な観念idea adaequataに類する思惟の様態です。そしてこの思惟の様態は,理性の有と名付けられているとはいえ,実在的な意味では無です。スピノザは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の附録として著した『形而上学的思想Cogitata Metaphysica』において,理性の有は非有であるといういい方をしており,こうした解釈は早い段階からスピノザの中で成立していたといえるでしょう。
しかしながら,理性の有は,実在的有を探求する場合に,有益ではあるのです。それは理性の有が,混乱した観念idea inadaequataとはまた違った思惟の様態であるからです。
渡辺明竜王の先手で相矢倉。先手の早囲いに後手の羽生善治棋聖から動いていく将棋に。中盤の戦いになってから先手が無理をしているように僕には思えましたので,後手が作戦勝ちをしていたのかもしれません。その後,7筋に飛車を回ったあたりでは後手が優位に立っていたのではないでしょうか。そして最後に驚異的と感じられるような寄せが炸裂しました。
後手が7六の金を取って王手をしたのに対して後手が歩を合駒し,飛車がひとつ寄って先手が銀を打った局面。ここで☖8八金☗6八王と決めてから☖6五飛と桂馬を取って☗3四銀と角を取らせました。厳密にいうと角を取るところでは変化するべきだったのかもしれませんが,先手の手順は自然であるようには思えます。
☖6六歩☗5六銀と拠点を作ってから取った桂馬を☖3六桂と打ちます。☗6五銀は先に☖6七金と打たれてから飛車を取られて負けなので☗3八飛はこの一手。そして今度は角を取らせた銀を☖3四銀と入手して☗6五銀に☖4八銀と打ちます。この局面で先手の勝ちになっているようです。
☗4四香☖4三銀の王手を利かせてから☗4八飛☖同桂成☗5七王で上部脱出を狙いますが今度は取った飛車を☖6八飛と打つのが妙手。
第1図で持ち駒を☖8八金と打ってしまうのは,右側に逃げられた場合に働かなくなる可能性がある異筋の手なので,第2図までは想定の上で打ったのは間違いないと推測できます。ここまで見事に一連して流れる寄せの手順というのはそうそうお目にかかれないのではないでしょうか。
羽生棋聖が勝って3勝1敗。第五局は来月4日と5日です。
第二部定理七系から分かるのは,知性intellectusのうちに客観的にすなわち観念ideaとして有であるものは,その対象が知性の外に形相的な有として実在するということです。したがって,Aの観念が客観的有esse objectivumであれば,Aは形相的有esse formaleとしても知性の外に実在していることになります。スピノザはこうした客観的有のことを観念というのです。これでみれば分かるように,実際には無といわなければならないような思惟の様態cogitandi modiがある,無についてそれをあるというのは語弊がありますが,どういういい回しをしたらよいか分からないので無といわれる思惟の様態があるといいますが,この場合にはその思惟の様態は観念とはいい得ないことになります。第一部定義三は実体substantiaの定義Definitioで,実体は実在しますから,僕たちは実体の観念を有することはできます。しかし複数の実体は実在しないので,僕たちが『エチカ』の諸定理の中で複数の実体が存在するのでなければ実際は無について何事かを述べている論証Demonstratioについて,それを十全に認識し得るのは,純粋な知的操作によっています。あるいは,精神の能動actio Mentisから生じる思惟の様態は,その思惟の様態の本来的特徴denominatio intrinsecaを十全に表現するexprimereといういい方が可能であるとすれば,それは僕たちの精神の能動に依拠しているのです。
このように,僕たちが純粋な知的操作によって何事かを把握するとき,それが有であるならその思惟の様態は観念であるといい得ることになりますが,無である場合には観念とはいわれ得ません。そしてそうした思惟の様態については理性の有entia rationisといわれることになります。いい換えれば理性の有とは,その対象を形相的には有さない十全な観念idea adaequataに類する思惟の様態です。そしてこの思惟の様態は,理性の有と名付けられているとはいえ,実在的な意味では無です。スピノザは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の附録として著した『形而上学的思想Cogitata Metaphysica』において,理性の有は非有であるといういい方をしており,こうした解釈は早い段階からスピノザの中で成立していたといえるでしょう。
しかしながら,理性の有は,実在的有を探求する場合に,有益ではあるのです。それは理性の有が,混乱した観念idea inadaequataとはまた違った思惟の様態であるからです。
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