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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大山名人杯倉敷藤花戦&自然中心主義

2025-03-26 18:55:40 | 将棋
 倉敷市芸文館で指された昨日の第32期倉敷藤花戦三番勝負第二局。
 伊藤沙恵女流四段の先手で福間香奈倉敷藤花のノーマル向飛車に先手の銀冠。この将棋は後手の序盤の構想が悪かったために不利になり,そこから盛り返していくという進展になりました。
                       
 局後の話だとここでは先手はもう諦めていたようです。ただここから☗9三歩成☖同王☗8七玉と指したのは意外でした。これは☖9四歩と打たれてノーチャンスになるように思えるからです。
 ここで☗7五金と角を取れば後手は☖8六銀と飛車を取ってくるでしょう。これは王手なので☗同玉の一手。そこで☖7五歩と金を取られて駒損ですがそれでも☖同王とは取られない形で☗9三歩成とできるので,実戦の進行よりはチャンスが残ったように思えます。それで勝てるというわけではないかもしれませんが,少しでも勝負になりそうな順を選ぶということも大事かと思います。
 連勝で福間倉敷藤花が防衛第16期,17期,18期,19期,20期,23期,24期,25期,26期,27期,28期,29期,30期,31期に続く十連覇で15期目の倉敷藤花です。

 原理の見方を人間から馬に変更すれば,馬は馬の利益utilitasだけを考慮し,馬以外のものの利益については何ら考慮する必要がないということになりますから,これを馬中心主義ということができることになります。つまり人間原理で考えるから人間中心主義という,人間にとって都合のよい結論が出るのと同じように,馬原理で考えれば,馬中心主義という馬にとって都合のよい結論が出てくることになるのです。こうしたことが自然Naturaのうちに存在するすべての個物res singularisに妥当することになります。したがって,こうした思想を何中心主義というべきであるかは,自然のうちに存在する何を原理として考えるのかということに依拠します。そもそもスピノザは第四部定理四でいっているように,人間そのものが自然の一部Naturae parsであるとしているわけで,人間中心主義というのが自然中心主義を超越することができるという立場を必ずしも採用しません。むしろ人間中心主義というもの自体が,自然中心主義の一部をなすというようにみることもできるわけです。つまり総体としての自然中心主義の一部として人間中心主義があるのであり,同じような自然中心主義の一部として,馬中心主義もあり得るしネコ中心主義もあり得るし,地蔵中心主義もあり得るというような枠組みでスピノザの思想は形而上学的に基礎づけられていると把握するのが,おそらく正しい見方なのだろうと僕は思います。とくに感情論についてみるときには,これが有効ではないでしょうか。
 スピノザは書簡五十六において,三角形が話す能力potentiaをもつとしたら,神Deusは優越的にeminenter三角だというだろうし,円は円で神の本性naturaは優越的意味において円形であるというだろうと指摘しています。これはフーゴー・ボクセルHugo Boxelが,人間的な意志voluntasや認識cognitioなどが,優越的に神に含まれていると主張していることの反論としてなされています。したがってこの大意は,ボクセルは人間として,つまり人間原理で考えているからそのように主張しているだけであって,三角形原理や円形原理で考慮するならばそのような結論は帰結されないということになります。これはまさに人間中心主義が,人間原理から,人間原理のみから帰結するということです。

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