スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

リコー杯女流王座戦&尋問

2015-11-11 19:47:18 | 将棋
 7日に静岡で指された第5期女流王座戦五番勝負第二局。
 加藤桃子女流王座の先手で伊藤沙恵女流二段がうそ矢倉を目指すと,先手は▲2五歩を保留して早囲いから片矢倉に。僕の序盤感覚からすると,7筋の歩を交換して△6四角と引いたあたりでは後手が十分と思います。先手はこの筋を警戒するか,そうでないならもっと堅く囲うかのどちらかにすべきであったと判断します。もっとも,僕の感覚などはあてになりませんし,仮にそれが正しかったとしても,勝負がつくような差がついたわけでもありません。
                         
 後手が角を打ち込んだところ。先手は▲3八飛と逃げ△8四角成に▲3六飛と取りました。手順に目障りな歩を取れたのですから調子がよいように思えるのですが,後手が誘ったのかもしれません。逆モーションで△4八馬と入りました。
 何らかの手段で△4七馬は受けなければなりません。逃げつつ▲3五銀と出るのが正しかったそうですが▲5六角と打ちました。ただこれは△3五歩▲同飛△3四歩▲3六飛で,後手が手番を失うことなく玉頭を緩和することに成功。打った角が目標になってしまいました。まずは△7三桂。
 ▲5七銀△4九馬と指していますが,この交換は先手が得をしたともいいきれないところがあります。というのは▲6四歩△6五銀▲6三歩成と開き直ったところですぐに角を取るのではなく△5五歩とされ▲7三と△5六歩と進んだところで銀に当たることになったからです。
 ここで▲同銀と取るのは仕方ないところでしょう。後手は△6六歩▲同銀△同銀▲同金とこちらを取ってから△8一飛と逃がしました。
                        
 第2図となっては差が開いてしまいました。時間は掛かったもののこのまま後手が押し切りました。
 伊藤女流二段が勝って1勝1敗。第三局は28日です。

 逮捕されたクールバッハ兄弟はアムステルダム市の委員会に尋問されました。このときにスピノザとの関係について聞かれています。『神学・政治論』はまだ発行される前のことでしたが,すでにスピノザは保守派にとっての危険人物とみなされていたことの証明といえそうです。
 答弁の中でアドリアンは,スピノザの家を様ざまな機会に訪ね,一緒に過ごしたということを認めています。年代からみてアドリアンが訪ねたのはフォールブルフのティードマンの家でなかったかと思われます。ファン・デン・エンデンの家を何度か訪ねたことがあるという供述がありますが,この内容からはすでにスピノザがレインスブルフに移住した後だと考えられるからです。またアドリアンは『百花繚乱の時代』を執筆するにあたっては,だれの助けも借りなかったし,その内容についてスピノザと意見を交わしたこともないとしています。
 アドリアンの答弁は真実であったかもしれませんし,嘘であったかもしれません。ただ,取り調べる側にあったフッデが,こうしたことについて何かを知っていたという可能性はあると思います。フッデ自身がスピノザと親密に交際していたのですから,スピノザと兄弟が知己の関係にあるということくらいは知っていて不自然ではありません。また,フッデ自身が受けていたスピノザの神に関する形而上学と,アドリアンがふたつの著書で主張していたことの間に類似性があるということくらいは理解できたと思います。もちろんフッデは何も知らなかったし何も分からなかったのかもしれませんが,知っていて素知らぬふりをしたというのも,可能性としては大いにあるのではないかというのが僕の見解です。
 取り調べの結果,ヤンは釈放されました。著者はアドリアンで,ヤンはその内容には深く関与していないと認められたからです。これは,まだヨハン・デ・ウィットが実質的な統治者として,議会派がオランダの実権を握っていた時代であったからだと僕は考えています。著作がない人間の宗教的見解に過敏に対処することはないという説明が委員会から出されていますが,この見解はウィットの信念に一致しているからです。

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