『構造としての語り』は文学全般を扱った著作です。同じ小森陽一の夏目漱石に特化したものとしては『漱石を読みなおす』があります。
特定の作品を扱ったものではありません。作家論と作品論で区別するなら作家論に該当すると思いますが,文芸評論という枠を踏み越えた,ある種の人物評論といった面が濃く浮かんでいるように僕には感じられました。
あとがきの部分で小森自身が,伝記的事実に則して書かれているように見えるかもしれないけれども,それは著者の意図するところではないという主旨のことをいっています。小森が意図したのは,漱石の過去を現在という地点から再構成するということではなく,漱石自身が生きたその時代において,漱石自身が人生上の問題にぶつかったとき,それをどのように解決しようとしたのか,もう少し具体的にいえば,その問題をどのように考え,そしてどう対処したのかを示すことでした。したがってそれらを後から再構成すると,むしろ整合性のとれない不条理な部分も出現する筈ですが,それはそれで構わないと小森は考えていたのだろうと思います。要するに漱石のような人物であっても,人間である以上は,矛盾を抱えていないような人生は存在しないということなのでしょう。
手法自体がうまくいっているのかどうかは,読者の判断に委ねられるとしかいいようがありません。全体として統一されていないことが,むしろ意図からすれば成功に該当する可能性もあるので,僕には何とも評価のしようがありません。
僕にとって最も面白かったのは,漱石が朝日新聞に入社するときの交渉の過程の部分が書かれている第五章でした。小森は連続性も意識していると思いますが,たぶん,各々の章が独立したひとつの評論であると解しておく方が,著書全体は読みやすいのではないかと思います。
後のスピノザがクロムウェルをどのように評価していたかを検討するのに助けとなる材料ならひとつだけあります。『神学・政治論』の第18章八節は,ピューリタン革命と,その後の王政復古に関する記述であると理解できるからです。
ここでは,『国家論』における主権の三形態のうち,君主制の君主を正当な形で排除しようとしたのがピューリタン革命であるとされています。しかし革命後も,君主制という形態自体を変化させることはできなかったので,別の称号すなわち後に護国卿と称されるクロムウェルが新しい君主になったとスピノザは主張しています。クロムウェルは前の君主の友人や,友人と疑われる人びとを殺しまくり,それが終って世間が落ち着くと,今度は戦争を起こしました。これをスピノザは,民衆が新しい問題で手一杯となり,新しい君主となったクロムウェルを排除しようという考えに目を向けられなくするためであったと説明しています。つまりスピノザは,こうしなければクロムウェルはイギリスの支配者でい続けることができなかったと考えているわけです。1660年の王政復古は,祖国のためにしたことが,法で定められた旧君主すなわちチャールズ一世の権利を侵害し,かえってイギリスをひどい状態にしたことに気付いた民衆が,安心を得るために,そこまでの歩みを後戻りさせたがゆえの出来事であるというのがスピノザの説明です。
説明の是非はここでは問いません。少なくとも『神学・政治論』を書いたときに,スピノザのクロムウェルに対する評価が,芳しくないものであったのは間違いないでしょう。
無理をすれば,この評価を,帽子を飾る羽の比喩と関連させられないことはありません。ルイの記述からは,バルーフはクロムウェルが君主制の君主,すなわち独裁者になるであろうと言ったのだと,解することが可能な部分もあるからです。しかし僕には,これらを関連付けて理解しようとするのは,やや短絡的であるように思えます。『神学・政治論』というのは,クロムウェルの死後に,実際になしたことを知った上で書いたものであるからです。そこまで見通す目をもっていたとは考えられません。
特定の作品を扱ったものではありません。作家論と作品論で区別するなら作家論に該当すると思いますが,文芸評論という枠を踏み越えた,ある種の人物評論といった面が濃く浮かんでいるように僕には感じられました。
あとがきの部分で小森自身が,伝記的事実に則して書かれているように見えるかもしれないけれども,それは著者の意図するところではないという主旨のことをいっています。小森が意図したのは,漱石の過去を現在という地点から再構成するということではなく,漱石自身が生きたその時代において,漱石自身が人生上の問題にぶつかったとき,それをどのように解決しようとしたのか,もう少し具体的にいえば,その問題をどのように考え,そしてどう対処したのかを示すことでした。したがってそれらを後から再構成すると,むしろ整合性のとれない不条理な部分も出現する筈ですが,それはそれで構わないと小森は考えていたのだろうと思います。要するに漱石のような人物であっても,人間である以上は,矛盾を抱えていないような人生は存在しないということなのでしょう。
手法自体がうまくいっているのかどうかは,読者の判断に委ねられるとしかいいようがありません。全体として統一されていないことが,むしろ意図からすれば成功に該当する可能性もあるので,僕には何とも評価のしようがありません。
僕にとって最も面白かったのは,漱石が朝日新聞に入社するときの交渉の過程の部分が書かれている第五章でした。小森は連続性も意識していると思いますが,たぶん,各々の章が独立したひとつの評論であると解しておく方が,著書全体は読みやすいのではないかと思います。
後のスピノザがクロムウェルをどのように評価していたかを検討するのに助けとなる材料ならひとつだけあります。『神学・政治論』の第18章八節は,ピューリタン革命と,その後の王政復古に関する記述であると理解できるからです。
ここでは,『国家論』における主権の三形態のうち,君主制の君主を正当な形で排除しようとしたのがピューリタン革命であるとされています。しかし革命後も,君主制という形態自体を変化させることはできなかったので,別の称号すなわち後に護国卿と称されるクロムウェルが新しい君主になったとスピノザは主張しています。クロムウェルは前の君主の友人や,友人と疑われる人びとを殺しまくり,それが終って世間が落ち着くと,今度は戦争を起こしました。これをスピノザは,民衆が新しい問題で手一杯となり,新しい君主となったクロムウェルを排除しようという考えに目を向けられなくするためであったと説明しています。つまりスピノザは,こうしなければクロムウェルはイギリスの支配者でい続けることができなかったと考えているわけです。1660年の王政復古は,祖国のためにしたことが,法で定められた旧君主すなわちチャールズ一世の権利を侵害し,かえってイギリスをひどい状態にしたことに気付いた民衆が,安心を得るために,そこまでの歩みを後戻りさせたがゆえの出来事であるというのがスピノザの説明です。
説明の是非はここでは問いません。少なくとも『神学・政治論』を書いたときに,スピノザのクロムウェルに対する評価が,芳しくないものであったのは間違いないでしょう。
無理をすれば,この評価を,帽子を飾る羽の比喩と関連させられないことはありません。ルイの記述からは,バルーフはクロムウェルが君主制の君主,すなわち独裁者になるであろうと言ったのだと,解することが可能な部分もあるからです。しかし僕には,これらを関連付けて理解しようとするのは,やや短絡的であるように思えます。『神学・政治論』というのは,クロムウェルの死後に,実際になしたことを知った上で書いたものであるからです。そこまで見通す目をもっていたとは考えられません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます