スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

構造としての語り&十全な原因と部分的原因

2015-03-02 19:17:30 | 歌・小説
 「私の子ども」の母親は奥さんではないかという説は,小森陽一の『構造としての語り』という本の中で展開されています。
                         
 五部構成になっています。小森自身の説明を利用して,簡潔に紹介しましょう。
 第一部は総論で,この本の全体の枠組みに関する論述。ですからこの部分は個別の文学評論とは異なります。
 第二部は,物語行為論と小森はいっています。この章はほとんどが二葉亭四迷の『浮雲』に関する論述。なので漱石の文学論といえるような内容ではありません。著述自体が漱石論を意図されたものではありませんから,こうした内容が含まれているのも当然といえば当然で,実際に大部分がこれと同様です。
 第三部は小森によれば発話主体論です。ここでは主に明治時代の翻訳文学に関する論考に多くが費やされています。
 第四部が読書行為論で,この部は漱石のテクストが中心になっています。私の子どもに関する考察も,この部の中の「『心』における反転する〈手記〉」という章の中に示されています。
 第五部は書記行為論といわれています。ここでは横光利一が中心になって議論が展開されています。
 僕は絵画とか彫刻といった芸術に比べれば,文学に関しては多少は鑑賞能力があると思っています。しかしこの本は正直なところ僕には荷が重すぎて,全体の内容を評価することはできません。もっとも,この本で題材として紹介されている小説のうちには,僕が読んでいないものも含まれていますから,僕の手に負えないのは当り前かもしれません。第一部が総論ですから,そこに目を通して,理解できそうであれば読むというのがベストなのですが,簡単に目を通せるような分量ではありません。なのでこれをだれかに勧めるということも,僕にとっては困難です。全体に関しては,別の方の書評の方がきっと参考になるでしょうから,それを探してほしいです。
 第四部は,主張の是非は別に,僕にはとても面白かったです。僕の作家論と作品論の区分では,典型的な作品論です。この部分は,僕も漱石ファンに推薦することができます。

 単一の個物res singularisとみなすいくつかのres singularisが協同して複雑なres singularisを組織し,その複合的なres singularisが,ライプニッツがスピノザを訪問するという作用を決定することを示したのは,目的があるからです。このことから,その決定の原因の十全性に関して,次のことが結論できると考えるからです。
 第一部定理二八の意味から,組織化された複合したres singularisは,ライプニッツがスピノザを訪問するという作用の最近原因です。そしてそれは同時に,十全な原因であるということを意味します。このことは第一部公理四と,第三部定義一から明白であると考えなければなりません。では,その複合的なres singularisを,いくつかの部分に解体したとき,その解体された部分だけを単独でみるならば,それはライプニッツがスピノザを訪問するという作用を決定する原因であるといえるのでしょうか。
 僕の考えでは,それは原因です。ただし,十全な原因ではありません。もっとも,それが十全な原因ではあり得ないということは,そもそもの仮定の仕方から明らかだといえます。それでも原因であるというのは,部分的原因であるという意味です。これもまた,第三部定義一は,原因は十全な原因であるか部分的原因であるかのどちらかであるという意味を明らかにもっていますから,それが原因であるけれども十全な原因ではないとすれば,部分的原因であるのは当然です。
 要するに僕がいっているのは,もしもあるres singularisが別のres singularisの存在ないしは作用の原因,十全な原因であるというとき、原因の方をいくつかのres singularisに分割することが可能で,かつその分割された部分がそれ自体で意味を有する単独のres singularisであるならば,その単独のres singularisは,部分的原因を構成するであろうということです。いい換えれば,十全な原因は,この意味においては,部分的原因の集合であるということです。
コメント
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