第三部定理二五およびその証明から,さらに以下のことが出てきます。第三部定理二六です。
「我々は,我々の憎むものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものをその憎むものについて肯定しようと努める。また反対に我々の憎むものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める」。
もう何度もいっていることですが,ここでも「努める」といわれているのは,僕たちがそのために努力するという意味ではありません。いい換えればここには目的論的な意味は含まれていませんし,何らかの意志作用が含まれているわけでもありません。ただ僕たちが現実的に存在する場合には,常にこういった傾向を有しているというほどの意味です。
なぜこれが第三部定理二五とその証明から帰結してくるのかということは,さほど難しくありません。これはスピノザの哲学において反対感情とは何かということを理解してさえいれば,それ以上の説明を必要としないからです。ここでの場合には,愛の反対感情が憎しみであるということ,そして喜びの反対感情が悲しみであるということだけ知っていれば十分であるといえます。愛と憎しみについては第三部諸感情の定義六と第三部諸感情の定義七,喜びと悲しみについては第三部諸感情の定義二と第三部諸感情の定義三を参照するだけでよいのです。
僕たちは愛する者を喜びに刺激するものについてはそれを肯定し,悲しませるものについては否定するという傾向を有しています。これが第三部定理二五でした。なので必然的に各々の反対感情についてはちょうど逆の傾向を有することになります。すなわち,憎んでいる者を喜ばせるような事柄に関してはそれを否定する傾向をもつでしょうし,逆に憎んでいる人を悲しませるような事物に対してはそれを肯定する傾向を有するでしょう。第三部定理二六がいっているのはこのことなのです。
スピノザの思想の中に,実在的に区別されるような哲学属性と神学属性が存在するということは,強くそれを意識してはいなかったのだとしても,気が付いていた人たちがいたのではないかと僕には思われます。
ライプニッツは宮廷人という立場からスピノザを否定しました。とりわけスピノザが提唱している神からの人格の剥奪は,ライプニッツのような立場からしたら許されざる思想であった筈です。ではだからライプニッツがスピノザの思想を全面的に否定したのかといえば,必ずしもそうではありません。ライプニッツは自身の思想が正しくなければスピノザの思想が正しいのだといっていたくらいですから,部分的には高い評価を与えていたといって過言ではありません。要するにライプニッツにとって,スピノザが哲学属性の中で語っていることが,神学属性に影響を与えない範囲でなら,むしろスピノザの見解に同意していたと思うのです。ただライプニッツは,論理的な方法をもってスピノザの哲学属性内の言論を崩せると思っていましたから,スピノザの神学属性を全面的に否定するだけでなく,哲学属性の内容を改めようとしたのでしょう。こう考えればライプニッツは,スピノザのうちにはふたつの属性があるという点には気付いていたといえます。ただそれが「共通点」を有さないというようには理解していなかったと思います。
後の時代のヤコービはもっと自覚的であったかもしれません。ヤコービはスピノザが哲学属性の内部で語っていることについては,論理的な瑕疵がまったくないので,それを論理によって反駁することは不可能だと理解していました。ただヤコービはブレイエンベルフがそうであると語っているようなキリスト教徒的哲学者でしたから,スピノザの神学属性を認めるわけにはいきませんでした。したがって,この区分で説明すれば,神学属性の内部に超論理を導入することによってスピノザを反駁しようとしたのです。つまりヤコービにとって難点であったのはスピノザの神学属性だけであり,哲学属性についてはむしろ全面的に肯定していたといっていいほどだと思います。なのでヤコービもこのことに気付いていたといえるでしょう。
「我々は,我々の憎むものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものをその憎むものについて肯定しようと努める。また反対に我々の憎むものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める」。
もう何度もいっていることですが,ここでも「努める」といわれているのは,僕たちがそのために努力するという意味ではありません。いい換えればここには目的論的な意味は含まれていませんし,何らかの意志作用が含まれているわけでもありません。ただ僕たちが現実的に存在する場合には,常にこういった傾向を有しているというほどの意味です。
なぜこれが第三部定理二五とその証明から帰結してくるのかということは,さほど難しくありません。これはスピノザの哲学において反対感情とは何かということを理解してさえいれば,それ以上の説明を必要としないからです。ここでの場合には,愛の反対感情が憎しみであるということ,そして喜びの反対感情が悲しみであるということだけ知っていれば十分であるといえます。愛と憎しみについては第三部諸感情の定義六と第三部諸感情の定義七,喜びと悲しみについては第三部諸感情の定義二と第三部諸感情の定義三を参照するだけでよいのです。
僕たちは愛する者を喜びに刺激するものについてはそれを肯定し,悲しませるものについては否定するという傾向を有しています。これが第三部定理二五でした。なので必然的に各々の反対感情についてはちょうど逆の傾向を有することになります。すなわち,憎んでいる者を喜ばせるような事柄に関してはそれを否定する傾向をもつでしょうし,逆に憎んでいる人を悲しませるような事物に対してはそれを肯定する傾向を有するでしょう。第三部定理二六がいっているのはこのことなのです。
スピノザの思想の中に,実在的に区別されるような哲学属性と神学属性が存在するということは,強くそれを意識してはいなかったのだとしても,気が付いていた人たちがいたのではないかと僕には思われます。
ライプニッツは宮廷人という立場からスピノザを否定しました。とりわけスピノザが提唱している神からの人格の剥奪は,ライプニッツのような立場からしたら許されざる思想であった筈です。ではだからライプニッツがスピノザの思想を全面的に否定したのかといえば,必ずしもそうではありません。ライプニッツは自身の思想が正しくなければスピノザの思想が正しいのだといっていたくらいですから,部分的には高い評価を与えていたといって過言ではありません。要するにライプニッツにとって,スピノザが哲学属性の中で語っていることが,神学属性に影響を与えない範囲でなら,むしろスピノザの見解に同意していたと思うのです。ただライプニッツは,論理的な方法をもってスピノザの哲学属性内の言論を崩せると思っていましたから,スピノザの神学属性を全面的に否定するだけでなく,哲学属性の内容を改めようとしたのでしょう。こう考えればライプニッツは,スピノザのうちにはふたつの属性があるという点には気付いていたといえます。ただそれが「共通点」を有さないというようには理解していなかったと思います。
後の時代のヤコービはもっと自覚的であったかもしれません。ヤコービはスピノザが哲学属性の内部で語っていることについては,論理的な瑕疵がまったくないので,それを論理によって反駁することは不可能だと理解していました。ただヤコービはブレイエンベルフがそうであると語っているようなキリスト教徒的哲学者でしたから,スピノザの神学属性を認めるわけにはいきませんでした。したがって,この区分で説明すれば,神学属性の内部に超論理を導入することによってスピノザを反駁しようとしたのです。つまりヤコービにとって難点であったのはスピノザの神学属性だけであり,哲学属性についてはむしろ全面的に肯定していたといっていいほどだと思います。なのでヤコービもこのことに気付いていたといえるでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます