3日の報知オールスターカップを勝ったグルームアイランドの母の父はサクラチヨノオーです。
2歳の8月に函館でデビューして新馬戦を勝利。10月に中山のオープンに出走して連勝。続く東京のオープンは2着でしたが,朝日杯3歳ステークスを逃げ切り,準パーフェクトといえる成績で2歳の頂点に立ちました。ただ,当時は2歳王者決定戦が東西に分かれていた時代。西の阪神3歳ステークスのサッカーボーイが鮮烈な勝ち方をしたこともあり,JRA賞の受賞は逃しました。
3歳初戦は共同通信杯4歳ステークス。人気に推されましたが2番手追走からばてる形で4着。このときは中山競馬場が改修中だったので,弥生賞も東京競馬場で行われ,ここは逃げ切りました。サッカーボーイを3着に降してのもので,受賞を逃した鬱憤を晴らす形に。同じく東京での皐月賞は3着。そしてダービーへ。ここは4コーナーで先頭に並び掛けるレース。直線で一旦は2着馬に交わされたのですが,そこから差し返すという勝負根性を発揮して優勝。2歳王者が3歳の頂点にも立つことに。
たぶんこれで精根尽き果ててしまったのでしょう。3歳のキャンペーンはこれで終了。当時のルールのためにクラシックに出走できなかったオグリキャップが大活躍した年で,やはりJRA賞の受賞は逃しました。
4歳になって安田記念,宝塚記念と2戦しましたがいずれも大差で敗退。ダービーまでの輝きは取り戻せず,ターフを去りました。
種牡馬としては2頭の重賞勝ち馬を出しました。大成功とはいえないかもしれませんが,血を残した価値は十分にあったのではないかと思います。
ここまでのふたつの論証から,十全な観念はいかなる意味においても混乱した観念の原因ではあり得ないということ,また混乱した観念もどんな意味でも十全な観念の原因ではないということが明らかになりました。両者が直接的に発生の原因ではあり得ないということは,第二部定理四〇の4つの意味が成立していることから明らかですが,そればかりではありません。ある知性のうちにあるXの十全な観念は,同じ知性のうちにXの混乱した観念が発生するのを防ぐという点においても原因ではあり得ませんし,存在しているXの混乱した観念を除去するという点でも原因ではありません。また,Xの混乱した観念は,それがある知性のうちに存在することによって,その知性がXの十全な観念を有する契機となり得ないという意味においても,Xの十全な観念の原因ではあり得ないのです。つまり一般的な意味において,十全な観念と混乱した観念の間には,一切の因果関係が成立しないことになります。

僕が哲学属性と神学属性,いい換えれば能動属性と受動属性の間に,形而上学的意味において「共通点」はないと考えるのは,このことを根拠としています。他面からいえば,そこにいかなる因果関係も成立しないということを根拠にして,哲学と神学,あるいは能動と受動は,形而上学的意味においては実在的に区別される,各々が「唯一」の属性を構成するとみなすのです。
なぜそう考えるのかということの理由は,第一部定理三のうちにあります。そこでは,もしもAとBとの間に「共通点」が存在しないのなら,AはBの原因ではあり得ないし,BもAの原因ではあり得ないということがいわれています。そこで僕はこれを逆に理解し,もしAとBの間で一切の因果関係が成立し得ないのであれば,AとBは形而上学的意味においては「共通点」を有さず,実在的に区別されなければならないと解するのです。
スピノザは『神学・政治論』の序文の中で,聖書は理性を全面的に放任しているのであり,理性の営為という意味での哲学とは何の共通点も有していないといっています。それを形而上学的にいえば,僕が説明したような形になると思うのです。
2歳の8月に函館でデビューして新馬戦を勝利。10月に中山のオープンに出走して連勝。続く東京のオープンは2着でしたが,朝日杯3歳ステークスを逃げ切り,準パーフェクトといえる成績で2歳の頂点に立ちました。ただ,当時は2歳王者決定戦が東西に分かれていた時代。西の阪神3歳ステークスのサッカーボーイが鮮烈な勝ち方をしたこともあり,JRA賞の受賞は逃しました。
3歳初戦は共同通信杯4歳ステークス。人気に推されましたが2番手追走からばてる形で4着。このときは中山競馬場が改修中だったので,弥生賞も東京競馬場で行われ,ここは逃げ切りました。サッカーボーイを3着に降してのもので,受賞を逃した鬱憤を晴らす形に。同じく東京での皐月賞は3着。そしてダービーへ。ここは4コーナーで先頭に並び掛けるレース。直線で一旦は2着馬に交わされたのですが,そこから差し返すという勝負根性を発揮して優勝。2歳王者が3歳の頂点にも立つことに。
たぶんこれで精根尽き果ててしまったのでしょう。3歳のキャンペーンはこれで終了。当時のルールのためにクラシックに出走できなかったオグリキャップが大活躍した年で,やはりJRA賞の受賞は逃しました。
4歳になって安田記念,宝塚記念と2戦しましたがいずれも大差で敗退。ダービーまでの輝きは取り戻せず,ターフを去りました。
種牡馬としては2頭の重賞勝ち馬を出しました。大成功とはいえないかもしれませんが,血を残した価値は十分にあったのではないかと思います。
ここまでのふたつの論証から,十全な観念はいかなる意味においても混乱した観念の原因ではあり得ないということ,また混乱した観念もどんな意味でも十全な観念の原因ではないということが明らかになりました。両者が直接的に発生の原因ではあり得ないということは,第二部定理四〇の4つの意味が成立していることから明らかですが,そればかりではありません。ある知性のうちにあるXの十全な観念は,同じ知性のうちにXの混乱した観念が発生するのを防ぐという点においても原因ではあり得ませんし,存在しているXの混乱した観念を除去するという点でも原因ではありません。また,Xの混乱した観念は,それがある知性のうちに存在することによって,その知性がXの十全な観念を有する契機となり得ないという意味においても,Xの十全な観念の原因ではあり得ないのです。つまり一般的な意味において,十全な観念と混乱した観念の間には,一切の因果関係が成立しないことになります。

僕が哲学属性と神学属性,いい換えれば能動属性と受動属性の間に,形而上学的意味において「共通点」はないと考えるのは,このことを根拠としています。他面からいえば,そこにいかなる因果関係も成立しないということを根拠にして,哲学と神学,あるいは能動と受動は,形而上学的意味においては実在的に区別される,各々が「唯一」の属性を構成するとみなすのです。
なぜそう考えるのかということの理由は,第一部定理三のうちにあります。そこでは,もしもAとBとの間に「共通点」が存在しないのなら,AはBの原因ではあり得ないし,BもAの原因ではあり得ないということがいわれています。そこで僕はこれを逆に理解し,もしAとBの間で一切の因果関係が成立し得ないのであれば,AとBは形而上学的意味においては「共通点」を有さず,実在的に区別されなければならないと解するのです。
スピノザは『神学・政治論』の序文の中で,聖書は理性を全面的に放任しているのであり,理性の営為という意味での哲学とは何の共通点も有していないといっています。それを形而上学的にいえば,僕が説明したような形になると思うのです。
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