スヴィドリガイロフにピストルの銃口を向けたドゥーニャは,作為と思われるような会話を交わします。この後で,今度はスヴィドリガイロフの妻であるマルファの話に移ります。ここの部分で,マルファはスヴィドリガイロフに毒殺されたとドゥーニャは確信しているということが分かります。一方,スヴィドリガイロフの方は,自分が妻を殺したということについては肯定も否定もせず,仮にそれが真実であったとしても,それはドゥーニャのためだったという意味のことを言います。これは意味合いとしては,マルファがいなくなれば,ドゥーニャは莫大な遺産を手に入れたスヴィドリガイロフと結婚することができ,幸せになることができるということです。ですからそれが本来的な意味でドゥーニャのためであるとはいえない面があります。単にスヴィドリガイロフの欲望を満たすためだけのことに,マルファのためだという理由をスヴィドリガイロフ自身が与えていたと解することができるからです。
もっとも,スヴィドリガイロフは,ドゥーニャが自分のことを愛していると思っていたとうかがえるふしもあります。つまりスヴィドリガイロフの中では,ドゥーニャが自分のことを愛していて,その愛に報いるためにはマルファの存在が邪魔であると思っていたともいえるのです。スヴィドリガイロフがマルファを毒殺したのかどうかということは,『罪と罰』の中でははっきりとした記述がありません。『『罪と罰』を読まない』の中では,殺してはいないのではないかという意見も出ています。ただ,僕は殺したのだろうと思っています。スヴィドリガイロフがもうひとりのラスコーリニコフという役割を小説の中で十全に担うためには,殺人を犯していなければならないだろうと思うからです。そしてラスコーリニコフは殺人を犯したということをソーニャに明言したのに対し,スヴィドリガイロフはドゥーニャに対してそれを濁したということで,その対比は完成に近づくとも思うからです。
スヴィドリガイロフはドゥーニャからの愛を感じたのでマルファを殺したのだけれど,ドゥーニャはスヴィドリガイロフを最初から最後まで憎んでいたというのが,僕自身の見解です。
第二の規定に該当する部分については十分に説明することができました。続いて書簡十二の,第三の規定に当て嵌まる部分に移ります。
この部分ではスピノザは,あるものはどのような数をもってしても算定することができないために,そうしたものは無限infinitumであるといわれるといっています。そしてこうしたものは各々の間で,つまりこのような意味での無限であるものが複数あると仮定した場合に,一方が他方よりも大であるとか小であるというように認識するcognoscereことができるといっています。なぜなら,どのような数によっても算定できないすべてのものが等しいというわけではないからです。
河合の説明のときには僕はものの持続duratioを例示して説明しましたから,ここでも同じ例で説明すれば,ものの持続は何らかの数によって明示することができるものではありません。すでにいったように,あるものがどれくらい持続するdurareのかということは,そのものの本性essentiaに含まれているわけではなく,専ら外部の原因causaによって決定されることになるからです。このためにものの持続は無限と認識されることになります。ところで,持続のうちに存在するといわれるものはいくらでもあります。ただ,一般的に持続は無限と認識されるのですから,Aの持続もBの持続も同じように無限であると認識されることになります。しかし実際にはAの持続の方がBの持続より長いと認識されることはあるのです。よってこの場合は,AもBもその持続においては数によって算定することができないという意味で無限であるけれど,Aの無限の方がBの無限より大きいと認識されていることになります。
これが第三の規定に該当するのですが,ここまでの説明をみれば,河合の規定というのはまさにこの書簡十二の規定を踏襲しているのであって,スピノザの哲学における無限の概念notioの把握の仕方として最適ではないかと思われる方がいるのではないかと思います。他面からいえば,僕のように第三の規定を第一の規定および第二の規定からは分離した概念であると把握することは,スピノザの哲学における無限の概念の把握法としてはよくないのではないかと思われる方がいるのではないでしょうか。
もっとも,スヴィドリガイロフは,ドゥーニャが自分のことを愛していると思っていたとうかがえるふしもあります。つまりスヴィドリガイロフの中では,ドゥーニャが自分のことを愛していて,その愛に報いるためにはマルファの存在が邪魔であると思っていたともいえるのです。スヴィドリガイロフがマルファを毒殺したのかどうかということは,『罪と罰』の中でははっきりとした記述がありません。『『罪と罰』を読まない』の中では,殺してはいないのではないかという意見も出ています。ただ,僕は殺したのだろうと思っています。スヴィドリガイロフがもうひとりのラスコーリニコフという役割を小説の中で十全に担うためには,殺人を犯していなければならないだろうと思うからです。そしてラスコーリニコフは殺人を犯したということをソーニャに明言したのに対し,スヴィドリガイロフはドゥーニャに対してそれを濁したということで,その対比は完成に近づくとも思うからです。
スヴィドリガイロフはドゥーニャからの愛を感じたのでマルファを殺したのだけれど,ドゥーニャはスヴィドリガイロフを最初から最後まで憎んでいたというのが,僕自身の見解です。
第二の規定に該当する部分については十分に説明することができました。続いて書簡十二の,第三の規定に当て嵌まる部分に移ります。
この部分ではスピノザは,あるものはどのような数をもってしても算定することができないために,そうしたものは無限infinitumであるといわれるといっています。そしてこうしたものは各々の間で,つまりこのような意味での無限であるものが複数あると仮定した場合に,一方が他方よりも大であるとか小であるというように認識するcognoscereことができるといっています。なぜなら,どのような数によっても算定できないすべてのものが等しいというわけではないからです。
河合の説明のときには僕はものの持続duratioを例示して説明しましたから,ここでも同じ例で説明すれば,ものの持続は何らかの数によって明示することができるものではありません。すでにいったように,あるものがどれくらい持続するdurareのかということは,そのものの本性essentiaに含まれているわけではなく,専ら外部の原因causaによって決定されることになるからです。このためにものの持続は無限と認識されることになります。ところで,持続のうちに存在するといわれるものはいくらでもあります。ただ,一般的に持続は無限と認識されるのですから,Aの持続もBの持続も同じように無限であると認識されることになります。しかし実際にはAの持続の方がBの持続より長いと認識されることはあるのです。よってこの場合は,AもBもその持続においては数によって算定することができないという意味で無限であるけれど,Aの無限の方がBの無限より大きいと認識されていることになります。
これが第三の規定に該当するのですが,ここまでの説明をみれば,河合の規定というのはまさにこの書簡十二の規定を踏襲しているのであって,スピノザの哲学における無限の概念notioの把握の仕方として最適ではないかと思われる方がいるのではないかと思います。他面からいえば,僕のように第三の規定を第一の規定および第二の規定からは分離した概念であると把握することは,スピノザの哲学における無限の概念の把握法としてはよくないのではないかと思われる方がいるのではないでしょうか。
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