スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王座戦&原因からの抽象

2020-09-25 18:48:19 | 将棋
 仙台で指された昨日の第68期王座戦五番勝負第三局。
 永瀬拓矢王座の先手で後手の久保利明九段のノーマル三間飛車。先手が居飛車穴熊で後手がミレニアムから終盤まで互角の戦いになりました。
                                        
 第1図で☖6二金打とすると73手目のコメント欄にある千日手の筋があります。打開の権利は先手にあって,感想戦で示されたのが75手目のコメント欄の手順。しかしこの打開策では先手に分があるとは思えないので,この局面は千日手が双方にとっての最善だったのではないでしょうか。ただ,終局直後のインタビューの様子では,両対局者ともに千日手の筋には気が付いていなかったようでした。
 実戦は☖6二銀と引きましたが,ここで均衡が崩れたようです。☗7二金☖同金☗6一飛☖7一金打☗7二馬☖同玉☗1一飛成と進んで第2図。
                                        
 ここで☖8一玉と引いたのが最終的な敗着で,☖3九角と打つべきだったとされていますが,先手玉と後手玉の危険度の兼ね合いから,この手を逃したのは仕方がないようん思えますし,仮に☖3九角でも正しく応接すれば先手の方が勝てそうです。なので第1図で千日手にするのが後手としてはよかったのではないでしょうか。立会人が千日手に備えて洋服から和服に着替えたとありますので,対局者がふたりとも気付いていなかったのは不思議な気がします。
 永瀬王座が勝って2勝1敗。第四局は来月6日です。

 ある事柄が原因causaから抽象されて認識されるということが,どのような意味を有するかは,書簡十二のテクストを正しく解する上では重要です。ただここではこのことについてはさほど難しく考えません。
 あるものの本性essentiaにそのものの存在existentiaが含まれていないのであれば,そのものは存在するために外部に起成原因causa efficiensを必要とします。そしてそのものは,その起成原因による結果effectusであるといわれるのです。このことは,結果という概念notioがいかにしてスピノザの哲学のうちに生じてくると解されるべきかを説明したところでもいっておいたことです。このとき,もしその結果として存在するあるものが,起成原因からの結果としてではなく,単にそのあるものとして知性intellectusによって認識されるとき,そのものは原因から抽象されて認識されているという意味であるとここでは解しておきます。簡単にいえば,あるものが起成原因からの結果として認識されるのではない場合は,そのものが原因から抽象されていると解するということです。
 スピノザのテクストは,無限infinitumの第二の規定の中でいわれていました。これに該当するのは,無限様態modus infinitusですから,実際のテクストは,無限様態が原因から抽象されて,いい換えれば起成原因からの結果として認識されない場合は,無限様態は部分に分割されるし,有限finitumであるともみなされるといっていることになります。無限様態の起成原因について示しているのは第一部定理二一と第一部定理二二です。すなわち,ある属性attributumの直接無限様態の起成原因はその属性であり,ある属性の間接無限様態の起成原因はその属性の直接無限様態です。よって,ある属性の直接無限様態がその属性の結果として認識されていない場合は,知性は直接無限様態を部分に分割され,有限であると認識することになります。同様に,ある属性の間接無限様態が,その属性の直接無限様態の結果として認識されていない場合は,知性はその間接無限様態を,部分に分割される有限なものとみなすことになるのです。
 このことは逆からもいえます。すなわちもしある知性が無限様態を有限で可分的と認識しているとき,その無限様態を起成原因からの結果とは認識していないのです。

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