弘前市民会館で指された第64期王将戦七番勝負第七局。
弘前市長による振駒で郷田真隆九段の先手になり,相掛り。渡辺明王将は銀を7二ではなく6二に上がりました。

封じ手が指された局面。長考の末,▲8六銀△7六歩▲1五歩と進めました。第1図ですぐに▲1五歩と突けるので不思議な気もします。具体的には分からないのですが2手の交換を入れた方がよいという判断があったのでしょう。
ここから△同歩▲1三歩△同香▲1二歩までは流れからいって一直線。端を受けるなら△2二角しかありませんが,さすがにそれは指せないだろうと思います。△5三角と打ちました。
ここでまた先手が昼食を挟んで長考。▲1一歩成として攻め合いを選択。これは清算があってのものと思います。△8六角と切って▲同歩△同飛が先手の歩切れをついた後手の狙いの反撃。▲8七角と受けました。

これが瞬間的にひどい形なので,▲1一歩成のときに長考したのだろうと思います。この時点で角銀交換の駒得,さらにと金がいて桂馬も取れるのが先手の主張。どうやらこれが正しかったようで,後手の攻めが間に合わずに終局となりました。
4勝3敗で郷田真隆王将が誕生。王将には初就位。通算5期目のタイトルとなりました。
AとBというふたつの物体があると仮定します。その他の条件は同一で,Aは自己を維持するために薬物としてのインスリンを必要とせず、Bは必要とします。このとき,Aの完全性とBの完全性を比較すれば,Aの方がより完全であるということはできます。なぜなら,その他の条件が同一なら,AもBもインスリンを必要とする点では同一で,Aはそれを自己の力としてなし得るのに対し,Bは自己の力としてはなし得ないと規定できるからです。完全性すなわち実在性は,力という観点からみた本性ですから,その他の条件が同一である以上,AはBよりもひとつ多くのなし得ることがあるという意味になるからです。
しかし,なし得ることから力という観点だけを消せば本性になるのですから,Bが完全であることに違いはありません。つまり実際にはこの観点からいって,AもBも同じように完全であると考えるべきです。なぜなら、もしもBが自己の力によってインスリンを分泌できるとすれば,Bは本性の矛盾を含む存在となってしまうからです。AもBも,その本性によってなし得ることだけをなし,なし得ないことはなさないというのが,AにとってもBにとっても完全であるということの意味でなければなりません。
たとえば,人間は馬のように速く走ることはできません。だから人間の本性が不完全であるということにはなりませんし,馬の完全性より劣るということにもなりません。同様に,馬は人間のように二足歩行をすることはできませんが,だから馬は不完全ではありませんし,人間よりも完全性で劣るわけでもありません。これと同じことが、ただ一点だけの相違しかないと仮定されるAとBの間にも成立するのです。
ですから,たとえば同一人物と規定し得るXが,Aという現実的本性からBという現実的本性になるという完全性の移行が生じるなら,それはXの悲しみです。同様にBという現実的本性からAという現実的本性になるというならそれはXの喜びです。しかしXがAであり続ける限り,それは喜びでも悲しみでもありません。同じようにBであり続けるというだけでは,それは喜びではないし悲しみでもないのです。
弘前市長による振駒で郷田真隆九段の先手になり,相掛り。渡辺明王将は銀を7二ではなく6二に上がりました。

封じ手が指された局面。長考の末,▲8六銀△7六歩▲1五歩と進めました。第1図ですぐに▲1五歩と突けるので不思議な気もします。具体的には分からないのですが2手の交換を入れた方がよいという判断があったのでしょう。
ここから△同歩▲1三歩△同香▲1二歩までは流れからいって一直線。端を受けるなら△2二角しかありませんが,さすがにそれは指せないだろうと思います。△5三角と打ちました。
ここでまた先手が昼食を挟んで長考。▲1一歩成として攻め合いを選択。これは清算があってのものと思います。△8六角と切って▲同歩△同飛が先手の歩切れをついた後手の狙いの反撃。▲8七角と受けました。

これが瞬間的にひどい形なので,▲1一歩成のときに長考したのだろうと思います。この時点で角銀交換の駒得,さらにと金がいて桂馬も取れるのが先手の主張。どうやらこれが正しかったようで,後手の攻めが間に合わずに終局となりました。
4勝3敗で郷田真隆王将が誕生。王将には初就位。通算5期目のタイトルとなりました。
AとBというふたつの物体があると仮定します。その他の条件は同一で,Aは自己を維持するために薬物としてのインスリンを必要とせず、Bは必要とします。このとき,Aの完全性とBの完全性を比較すれば,Aの方がより完全であるということはできます。なぜなら,その他の条件が同一なら,AもBもインスリンを必要とする点では同一で,Aはそれを自己の力としてなし得るのに対し,Bは自己の力としてはなし得ないと規定できるからです。完全性すなわち実在性は,力という観点からみた本性ですから,その他の条件が同一である以上,AはBよりもひとつ多くのなし得ることがあるという意味になるからです。
しかし,なし得ることから力という観点だけを消せば本性になるのですから,Bが完全であることに違いはありません。つまり実際にはこの観点からいって,AもBも同じように完全であると考えるべきです。なぜなら、もしもBが自己の力によってインスリンを分泌できるとすれば,Bは本性の矛盾を含む存在となってしまうからです。AもBも,その本性によってなし得ることだけをなし,なし得ないことはなさないというのが,AにとってもBにとっても完全であるということの意味でなければなりません。
たとえば,人間は馬のように速く走ることはできません。だから人間の本性が不完全であるということにはなりませんし,馬の完全性より劣るということにもなりません。同様に,馬は人間のように二足歩行をすることはできませんが,だから馬は不完全ではありませんし,人間よりも完全性で劣るわけでもありません。これと同じことが、ただ一点だけの相違しかないと仮定されるAとBの間にも成立するのです。
ですから,たとえば同一人物と規定し得るXが,Aという現実的本性からBという現実的本性になるという完全性の移行が生じるなら,それはXの悲しみです。同様にBという現実的本性からAという現実的本性になるというならそれはXの喜びです。しかしXがAであり続ける限り,それは喜びでも悲しみでもありません。同じようにBであり続けるというだけでは,それは喜びではないし悲しみでもないのです。