スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ドバイワールドカップデー&量的変化

2015-03-29 19:09:08 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜から今日の未明にかけて行われたドバイワールドカップデー。今年も7頭の日本馬が招待を受けました。
 UAEダービーGⅡダート1900m。タップザットが逃げてゴールデンバローズが2番手。最初のコーナーでSir Feverにぶつけられるシーンがあったもののディアドムスが3番手と,3頭の日本馬が前に。ディアドムスは3コーナー付近から手が動き始めて脱落。勝ち馬からおよそ20馬身差の8着。前の2頭は並ぶように直線に。この2頭の外に持ったままでMubtaahijが並んできて,楽々と抜け出し8馬身差で快勝。日本馬の競り合いを制したゴールデンバローズは最後にMaftoolに4分の3馬身交わされて3着。タップザットはそこからおよそ2馬身差で5着。
 この時期の日本の3歳馬が海外でレースをするというのは厳しいと思うのですが,そのわりにはよく健闘したといえるのではないでしょうか。とくにゴールデンバローズは何事もなければダート競馬の大物に育ちそうです。
 ドバイシーマクラシックGⅠ芝2400m。前半は一列棒状のような隊列。ワンアンドオンリーが3番手,ハープスターが5番手という位置取り。ワンアンドオンリーは行きたがっているように見え,2番手に並んでいきました。ハープスターは抑えたままで6番手となり,3コーナーを回ってから徐々に外に出して直線に。しかし追い出しても反応がなく,勝ち馬からおよそ9馬身差で8着。ワンアンドオンリーはそれなりに踏ん張ったものの4馬身4分の1差で3着。
 このレースは非常に強い馬が多く,勝つのは大変だろうとみていました。そういう中ではやや離されはしたものの,ワンアンドオンリーの3着は評価に値すると思います。ハープスターは成長力の問題もあるのでしょうが,距離が長いように思えます。
 ドバイワールドカップGⅠダート2000m。ホッコータルマエが逃げました。やや遅れ気味の発馬だったエピファネイアは追い上げて5番手を追走。前半は追走に苦労していた感のあるPrince Bishopが向正面で行き脚がつき,ここからは消耗戦に。エピファネイアは3コーナーを前に力尽き,勝ち馬からおよそ41馬身半差で最下位。ホッコータルマエは先頭で直線に入り,食い下がろうとしたものの力尽きておよそ9馬身4分の1の差で5着でした。
 今年からタペタがダートに改修され,馬場適性が不明でした。エピファネイアは力からすればあっさり勝ってしまう可能性もあれば惨敗の可能性もあると思っていましたが,馬場適性を著しく欠いていたようです。ホッコータルマエは切れる脚があるというより,並んでの勝負根性で活路を見出すタイプですから,作戦としてはよかったと思います。ただそういうタイプの馬としては,直線が長すぎるのでしょう。5着になりましたが,これはレースが終ってからのもので,4着馬よりは高く評価する必要があると思います。勝ち馬は常識外れで,ゴールドシップのような馬が海外にもいるのだなと僕は思いました。
 ホッコータルマエとエピファネイアが日本で同じレースに出走することは考えられません。この結果から,どういうタイプの馬にチャンスがあるレースなのか,ある程度までは分かったのではないでしょうか。

 「人が変わる」という慣用表現が,人間の精神の現実的本性が変化し得るということを暗黙の前提としているという事実は,背理法によって説明することができます。つまりこの表現が精神の現実的本性の変化を意味しないと仮定すると,非論理的な結論が導かれるという方法で説明されます。その手順を以下に示しましょう。
 現実的本性が変化するかどうかとは別に,この慣用表現が,同一人物と措定可能な人間のある変化を意味しているということはそれ自体で明らかです。ですからそれが本性の変化でないとしても,何に喜びを感じ,また何に悲しみを感じ,そして何を欲して何を欲さないかということに何らかの変化が起こるということだけは,必然的に前提しているわけです。よってこの変化を,現実的本性以外の何らかの変化であると仮定してみましょう。
 喜びや悲しみは完全性の移行です。慣用表現は完全性の移行が生じるということは認めていて,仮定はそれを本性の移行と認めません。ところで,本性の変化と完全性の移行を同等に扱うことができるのは,完全性の移行を,量と質のうち,質的観点から把握することに依拠していました。要するにこの仮定は,完全性の移行は量的なものであって,質的なものではないと主張していることだと解せることになります。再び比喩的にいうなら,同一人物が有している箱の中身の量が変化すると主張しているのであり,同一人物という箱自体が変化するのではないと主張しているのです。ですからこの移行を量的なものであると考えてみましょう。
 だれでも経験的に感じていることだと思いますが,ある出来事が自分にとって喜びであったとして,その出来事がしばしば起こるようになると,たとえそれが喜びであっても,量が減ることがあります。いい換えれば最初は大きな喜びであった出来事が,あまりにしばしば生じることによって,後には小さな喜びとなったり,もはや喜びとも感じられないような出来事となったりすることがあります。もちろんこれは喜びだけでなく,悲しみの場合にも生じ得ます。こうしたことがなぜ生じ得るのかといえば,完全性の移行が量的なものではないからなのです。
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