輪島市で指された第55期王位戦七番勝負第一局。対戦成績は羽生善治王位が24勝,木村一基八段が9勝。
振駒で羽生王位の先手。木村八段は受けますのでこれだと相矢倉は本命の戦型でしょう。先手は雀刺しを目指して銀も2六に上がりましたが,端からは仕掛けられず,銀を引き,飛車も4筋に転換しました。
ここから▲4六歩△同歩▲同銀と攻めていくことに。それまでの手順からしたら本意の攻め方ではなかったかもしれません。△4五歩のとき,▲同銀もあるでしょうが,角が6四に上がった瞬間の仕掛けなので,▲5五銀の方が流れには則していると思います。△同銀▲同歩に△5八歩。先手は▲4九飛と引きましたが,この一手が入ったのは後手にとって大きかったように思います。△5五角に▲2四歩△同歩▲2五歩の継ぎ歩。後手は堂々と△同歩と応じ,▲4五飛のときに△4四金と力強く受けました。
これで後手が局面をリードしたのではないかと思われます。▲5五飛△同金に▲2四歩と玉頭に目障りな歩を垂らされましたが,△4九飛と打ち込んだ手が絶好の攻防手でした。
後手はと金もできそうですし,9二の飛車を転換する手もあります。第3図から▲8三角と打ってすんなり△4二飛と後手の指したそうな手を許したのは意外な進展。2枚の飛車の攻めで後手の勝ちになりました。
木村八段が先勝。第二局は23日と24日。
スピノザが様態的変状というとき,また,属性が様態的変状に様態化するというとき,それは直接無限様態を指すためか,そうでなければ個物res singularisを指すためかのどちらかです。つまりスピノザは間接無限様態を指すためには,様態的変状といっていませんし,属性が様態的変状に様態化するという言い回しを用いていません。これはなぜかと問うことが,別の論証の出発点になります。
この問いには,ある一般的標準が解答を与えてくれるように思われます。その標準とは,すべて存在するもの,あるいは概念conceptusされるものは,無限でないなら有限であるし,有限でないなら無限であるというものです。別の形にいい直せば,存在するもの,またconceptusされるものは,必ず無限であるか有限であるかのどちらかであって,無限でもあり有限でもあるということはないし,無限でも有限でもないということもないということです。
スピノザはこのことを直接的に言及してません。ただ,第一部定理一二を証明するとき,スピノザはこの標準に従っていると僕には思えます。ですからこの一般的標準を利用して,スピノザの哲学を理解しても,誤謬に至ることはないと推測されます。
様態的変状が存在するものであるということ,またconceptusされるものであるという点に,疑いの余地はないと思われます。したがって様態的変状は,無限であるか有限であるかのどちらかです。前者の場合は,無限な様態的変状です。いい換えれば属性は無限な様態的変状に様態化します。一方,後者であるならば,定まった存在を有する有限な様態的変状です。いい換えるなら,属性は定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化することになります。
一般的標準が与える解は,これ以外には様態的変状は存在せず,また考えられないということです。つまり属性は,無限な様態的変状に様態化するか,定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化するかのどちらかであるということです。前者が直接無限様態で,後者がres singularisなら,それ以外に様態的変状は存在しないし,考えられないことになります。
振駒で羽生王位の先手。木村八段は受けますのでこれだと相矢倉は本命の戦型でしょう。先手は雀刺しを目指して銀も2六に上がりましたが,端からは仕掛けられず,銀を引き,飛車も4筋に転換しました。
ここから▲4六歩△同歩▲同銀と攻めていくことに。それまでの手順からしたら本意の攻め方ではなかったかもしれません。△4五歩のとき,▲同銀もあるでしょうが,角が6四に上がった瞬間の仕掛けなので,▲5五銀の方が流れには則していると思います。△同銀▲同歩に△5八歩。先手は▲4九飛と引きましたが,この一手が入ったのは後手にとって大きかったように思います。△5五角に▲2四歩△同歩▲2五歩の継ぎ歩。後手は堂々と△同歩と応じ,▲4五飛のときに△4四金と力強く受けました。
これで後手が局面をリードしたのではないかと思われます。▲5五飛△同金に▲2四歩と玉頭に目障りな歩を垂らされましたが,△4九飛と打ち込んだ手が絶好の攻防手でした。
後手はと金もできそうですし,9二の飛車を転換する手もあります。第3図から▲8三角と打ってすんなり△4二飛と後手の指したそうな手を許したのは意外な進展。2枚の飛車の攻めで後手の勝ちになりました。
木村八段が先勝。第二局は23日と24日。
スピノザが様態的変状というとき,また,属性が様態的変状に様態化するというとき,それは直接無限様態を指すためか,そうでなければ個物res singularisを指すためかのどちらかです。つまりスピノザは間接無限様態を指すためには,様態的変状といっていませんし,属性が様態的変状に様態化するという言い回しを用いていません。これはなぜかと問うことが,別の論証の出発点になります。
この問いには,ある一般的標準が解答を与えてくれるように思われます。その標準とは,すべて存在するもの,あるいは概念conceptusされるものは,無限でないなら有限であるし,有限でないなら無限であるというものです。別の形にいい直せば,存在するもの,またconceptusされるものは,必ず無限であるか有限であるかのどちらかであって,無限でもあり有限でもあるということはないし,無限でも有限でもないということもないということです。
スピノザはこのことを直接的に言及してません。ただ,第一部定理一二を証明するとき,スピノザはこの標準に従っていると僕には思えます。ですからこの一般的標準を利用して,スピノザの哲学を理解しても,誤謬に至ることはないと推測されます。
様態的変状が存在するものであるということ,またconceptusされるものであるという点に,疑いの余地はないと思われます。したがって様態的変状は,無限であるか有限であるかのどちらかです。前者の場合は,無限な様態的変状です。いい換えれば属性は無限な様態的変状に様態化します。一方,後者であるならば,定まった存在を有する有限な様態的変状です。いい換えるなら,属性は定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化することになります。
一般的標準が与える解は,これ以外には様態的変状は存在せず,また考えられないということです。つまり属性は,無限な様態的変状に様態化するか,定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化するかのどちらかであるということです。前者が直接無限様態で,後者がres singularisなら,それ以外に様態的変状は存在しないし,考えられないことになります。