スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑥-4&限定ではない否定

2013-08-25 18:52:31 | ポカと妙手etc
 ⑥-3の第1図で先手は18分考え,▲2七銀と棒銀に出ました。△7七角成▲同銀△2二銀では良いところがないというのが後手の感想。よって△5五歩と止め,▲3六銀に△3三桂と受けました。
                         
 ここでは△8四飛も有力だったという後手の感想があります。▲6六角△5四飛▲4五銀△7四飛が進行の一例。
 第1図で▲5五角は可能ですが,△8六歩▲同歩△同飛▲8七歩△7六飛で,後手は歩損を解消できます。飛車先の交換も許しますので,先手がそう進めないのは自然でしょう。様子見の▲1六歩に△5三銀と上がりました。
                         
 ここからまた両者の読み筋が異なった展開に進んでいくこととなります。

 限定は必ず否定のうちに含まれなければなりません。次に,決定と限定対義語的関係を構築します。そして最後に,第一部定理二六証明でスピノザが積極的という語句を用いるとき,それは神の決定と関連しています。したがって,限定に関してそれを積極的と表現することは不可能です。このことから,少なくとも否定のうちに含まれているある事柄に関しては,それを積極的ということができないということが明らかになっています。それでは否定のうち,限定ではない事柄に関してなら,積極的といい得るような要素があるのでしょうか。
 先に結論を示しますと,僕はそうしたものは存在しないと考えます。つまり何らかの否定である限り,それは積極的であるといえるような要素を構成することはないと考えます。なぜ僕がそのように結論するのかをここからは説明していきます。
 限定というのは,第一部定義二から明らかなように,同じ属性に属するものの間でのみ成立する関係です。いい換えるなら,もしもAがBを限定するといわれるのであれば,AとBには共通点があるということが前提されます。そしてこのことが必然的に否定のうちに含まれるのならば,否定のうちにある限定ではないような事柄というのは,互いに共通点を有さないものの間でのみ成立するということになります。つまり,AがBを否定するということが,AがBを限定するということを意味しないのであるとするならば,AとBとの間には共通点がないということが前提されているのです。要するにそれは,AとBが異なった属性に属しているということです。
 第一部定義六説明において,自己の類において無限であるものに対しては,無限に多くの属性を否定することが可能であるという意味のことをスピノザがいうとき,それはこうした事態を指し示しているといえるでしょう。第二部公理五にあるように,人間が認識する属性は思惟の属性と延長の属性だけですから,このことは思惟は延長によって否定され,延長は思惟によって否定されるということを,人間にとっては意味しているといえるでしょう。そしてこれ以外には,限定ではないような否定というのはあり得ないということになります。
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