スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&後半部分

2013-05-13 19:59:51 | 将棋
 第54期王位戦挑戦者決定リーグ。白組は4連勝の佐藤康光九段と澤田真吾五段が最終戦で直接対決。勝った方が挑戦者決定戦に進出することになりました。公式戦初対局。
 先手は佐藤九段で澤田五段の一手損角換り2。後手のダイレクト向飛車から先手が▲6五角と打ち,△7四角に交換して▲7五歩とし,後手が袖飛車に戻す戦型に。押し引きの中盤から序盤に戻ったような駒組を経て第二次の戦いに。
                         
 ここで先手は▲5四歩。後手玉が上がった瞬間を狙った仕掛けといえそう。△同歩に▲5五歩と継歩をしました。後手は△4五歩と反発。これに対して▲3五銀と捨て,△同銀に▲7一角の両取り。防ぐには△6二飛しかありませんが,あっさり▲同角成と取ってしまい,△同金に▲7一飛と打ち込みました。
                         
 第2図自体はまだ先手の銀損に等しいのですが,桂馬を取り返しながら龍を作る手が約束されていて,玉の堅さで優る先手に分があるよう。つまりこれは先手の技が決まった図のようです。将棋はこの後,先手の攻めに対して後手がじり貧模様となってしまい,最後はわりと大きな差で先手の勝ちになっています。
                         
 勝った佐藤九段が白組からの挑戦者決定戦進出を決めました。

 論考の中で,桜井自身は第一部定理二六の証明は行っていません。しかし,ここまでに説明してきたことから,少なくとも桜井が第一部定理二六証明の②の部分に関して,どのような考え方をもっているのかということは,類推することができます。すなわち,もしもあるものが作用に決定されるということがあるのだとしたら,そこにはある働きが介在していなければならないということです。つまりこのことをスピノザは自明であると主張していると,桜井は解していると考えていいだろうと思います。
                         
 このことについてはその是非を問うべきでしょうが,その前に,もうひとつ,ここまでのことからこの定理の理解について重要な内容が帰結しています。ものが作用に決定されるなら,そこに,たとえ神のという限定をしなくても何らかの働きが介在していなければならないのだとしたら,そのことが積極的といわれる要素を構成しなければこの定理が成立しません。すると,ほかから決定されてものが作用するということ自体のうちに,そうした要素がなければならないことになります。いい換えれば,そのような決定なしにはものがある作用をなすことができないのだとしても,それはここでいわれている積極性を否定することではないと解する必要があります。すなわち第一部定理二六の後半部分でいわれていることもまた,実はある積極的な事柄を構成するのだと理解しなければならないのです。
 したがって,まず第一に,神の決定なしにものが自身を作用に決定することができないという言明は,そのものに関してのある否定的な言明ではないということになります。それが否定的な言明であれば,あるいは全面的な否定ではないとしても,仮にそのものを限定するような内容を含む言明であるとしたら,それは積極的な内容を構成することができなくなってしまうからです。
 するとこのことから,第二の意味が帰結する筈です。仮に神からある作用をするように決定されたものが,その決定を覆すことができないのだとしても,このことは同じように,そのものに関するある否定ないしは限定を含んでいるわけではないと解さなければならないということになるからです。
コメント
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