レース創設15年目にして初めて4月中に実施されることになった第15回かきつばた記念。
何が何でもといった感じでサイモンロードがハナに。ティアップワイルドが外に回って2番手。さらにセレスハント,ブライトシンプーが外に続き,ダイショウジェットは内。トウホクビジン,ダノンカモンも差がなく追走。最初の600mは37秒3で,スローペースといえるでしょう。
ペースがペースだけに逃げ馬は楽。ティアップワイルドは3コーナー過ぎから押して前に並び掛けていきました。並ぶまでは手間取りましたが直線で並んでしまえばあっさりと交わし,2馬身抜け出して快勝。ダイショウジェットと並んで外を追い込んだダノンカモンが2着に届き,粘ったサイモンロードが頭差の3着。
優勝したティアップワイルドは昨年暮れの兵庫ゴールドトロフィー以来の重賞2勝目。今日のメンバーでは能力上位ですから,順当な勝利といっていいでしょう。この路線はレースごとに出走馬のレベル差が出ることがあり,今日のようなメンバーでの戦いになれば,まだ重賞制覇を重ねていかれるものと思いますが,一線級相手に勝つためには,もう少しのレベルアップが必要であるように思います。母のはとこに1999年のTCK女王盃を勝ったケープリズバーン。
騎乗したのは石橋脩騎手で管理しているのは西浦勝一調教師。かきつばた記念は共に初勝利。
ある事柄が自明であるとか,あるいはそれ自体で明らかであるといったことは,ごく一般的に使われるような言い回しであるといえると思います。事実,僕自身がこれまでの論考において,何度もこうした言い回しをしてきました。しかし,だからスピノザがこうした言語表現をするという場合に,それを同じように一般的な意味で用いているということは,少なくとも無条件に前提して構わないというものではありません。そのように解釈できる可能性はありますが,スピノザはどういった文脈においてこうした表現を用いるのかということについて,ある程度は精査した上で,得るべき結論であるといえます。
要するに,自明であるということがスピノザの哲学においてどのような意味を有するのかということを,正しく結論付けるためには,それこそ積極的ということがどのような意味を有するのかということを探求している今回の考察と,分量としては何ともいえませんが,少なくとも質的な面からいうなら,同じ程度の精査は必要であるということになります。いい換えればそれは,それ自体でテーマとして成立し得る内容を有しているということになるでしょう。それを考えてみることは大いに有意義なことであるでしょうし,また僕自身にもそれに関する興味が皆無であるというわけではありません。ただ,それは今やるべきことであるかといえば,そうではありません。現在は積極的であるということがスピノザの哲学の中でもっている意味を探索しているのですから,それに関係するような内容さえ把握しておけば十分であるといえるからです。
そこで,スピノザがある事柄の自明性を主張するときに,現状の考察に関連して重要であると僕が考えていること,より詳しくいうなら,とくに第一部定理二六証明の②の部分で,自明であるという表現がされている場合に,とくに重要ではないかと僕が考えている点を,ふたつだけ示しておくことにします。
まず,スピノザの哲学では,あらゆる事物が形相的formalisと客観的objectumの二種類に分類されます。このとき,自明であるということは,形相的な事柄についていわれるのではなく,客観的な事柄に関していわれます。
何が何でもといった感じでサイモンロードがハナに。ティアップワイルドが外に回って2番手。さらにセレスハント,ブライトシンプーが外に続き,ダイショウジェットは内。トウホクビジン,ダノンカモンも差がなく追走。最初の600mは37秒3で,スローペースといえるでしょう。
ペースがペースだけに逃げ馬は楽。ティアップワイルドは3コーナー過ぎから押して前に並び掛けていきました。並ぶまでは手間取りましたが直線で並んでしまえばあっさりと交わし,2馬身抜け出して快勝。ダイショウジェットと並んで外を追い込んだダノンカモンが2着に届き,粘ったサイモンロードが頭差の3着。
優勝したティアップワイルドは昨年暮れの兵庫ゴールドトロフィー以来の重賞2勝目。今日のメンバーでは能力上位ですから,順当な勝利といっていいでしょう。この路線はレースごとに出走馬のレベル差が出ることがあり,今日のようなメンバーでの戦いになれば,まだ重賞制覇を重ねていかれるものと思いますが,一線級相手に勝つためには,もう少しのレベルアップが必要であるように思います。母のはとこに1999年のTCK女王盃を勝ったケープリズバーン。
騎乗したのは石橋脩騎手で管理しているのは西浦勝一調教師。かきつばた記念は共に初勝利。
ある事柄が自明であるとか,あるいはそれ自体で明らかであるといったことは,ごく一般的に使われるような言い回しであるといえると思います。事実,僕自身がこれまでの論考において,何度もこうした言い回しをしてきました。しかし,だからスピノザがこうした言語表現をするという場合に,それを同じように一般的な意味で用いているということは,少なくとも無条件に前提して構わないというものではありません。そのように解釈できる可能性はありますが,スピノザはどういった文脈においてこうした表現を用いるのかということについて,ある程度は精査した上で,得るべき結論であるといえます。
要するに,自明であるということがスピノザの哲学においてどのような意味を有するのかということを,正しく結論付けるためには,それこそ積極的ということがどのような意味を有するのかということを探求している今回の考察と,分量としては何ともいえませんが,少なくとも質的な面からいうなら,同じ程度の精査は必要であるということになります。いい換えればそれは,それ自体でテーマとして成立し得る内容を有しているということになるでしょう。それを考えてみることは大いに有意義なことであるでしょうし,また僕自身にもそれに関する興味が皆無であるというわけではありません。ただ,それは今やるべきことであるかといえば,そうではありません。現在は積極的であるということがスピノザの哲学の中でもっている意味を探索しているのですから,それに関係するような内容さえ把握しておけば十分であるといえるからです。
そこで,スピノザがある事柄の自明性を主張するときに,現状の考察に関連して重要であると僕が考えていること,より詳しくいうなら,とくに第一部定理二六証明の②の部分で,自明であるという表現がされている場合に,とくに重要ではないかと僕が考えている点を,ふたつだけ示しておくことにします。
まず,スピノザの哲学では,あらゆる事物が形相的formalisと客観的objectumの二種類に分類されます。このとき,自明であるということは,形相的な事柄についていわれるのではなく,客観的な事柄に関していわれます。