清水市代女流名人に里見香奈倉敷藤花が挑戦する注目の第36期女流名人位戦五番勝負が開幕しました。対戦成績は清水名人が6勝,里見倉敷藤花が2勝。
振駒で先手は里見倉敷藤花。先手の三間飛車石田流模様に後手が棒金で対抗という戦型に。
第1図から後手が△8六歩と仕掛けました。先手の飛車の捕獲を狙っての動きですが,これはその後の展開からも分かるように明らかに無理筋。もうすでに後手が作戦的に苦しい局面だったのかもしれませんが,先手は普通に対応したという感じでしたので,この仕掛けのために著しく苦しくなってしまいました。
第2図となって▲8四とと引くのが好着想。当然の一手ではあるのでしょうが,と金は引く手に好手ありという将棋の格言を地でいく一手であったと思います。この後も後手の狙いをことごとく封じて先手の快勝となりました。
相手の無理攻めに乗じてではありましたが素晴らしい内容で里見倉敷藤花が先勝。第二局は31日です。
この表象像の連結が,この連結を生じる,いい換えれば何事かを想起する人間の精神のうちで,この人間の身体の刺激状態の秩序に平行的に応じて生じるということは,ただちに,表象像の連結のあり方というのは,各個人によって異なるということを意味します。なぜなら,第二部自然学②公理一によれば,ある物体がほかの物体から動かされる様式は,動かす物体と動かされる物体の両方の本性から生じます。ところで,人間の身体というのは物体にほかなりませんから,たとえば同じ物体Xから動かされる様式は,人間Aの身体の本性と人間Bの身体の本性が異なるだけ異なってきます。そしてちょうどこの様式の相違と同じだけ,人間Aの身体の刺激状態の秩序と人間Bの身体の刺激状態の秩序もまた異なってくるということになるからです。
僕がm先生の話を聞いてかつて僕の口内にできたできもののことを連想した,想起したのは,まさにそのできものがかつて僕の口内にできたことがあったからです。いい換えれば,僕の身体の刺激状態の秩序がそのようになっていたからこそ,僕はこのことを想起し得た,あるいは必然的に想起したといえます。同様に,この闘病記をお読みになった方が,唾石の観念から口内のできものの観念に移行し得たとすれば,それはこの闘病記を読むということによって,その方の身体の刺激状態の秩序がそのように形成されていたからだということになります。
しかし一方で,そうした経験がまったくないという方は,いい換えれば身体の刺激状態の秩序というものがそのようには形成されていない方であれば,こうした想起は生じようがありません。つまり想起することは不可能であるということになるわけで,これはちょうど,スピノザの哲学において必然と不可能が反対の概念であるということにも対応します。かくして表象像の連結というのは,各個人によって相違するのであって,そしてこの相違というものは,それら各個人の身体の刺激状態の相違に並行して生じるということになるのです。
振駒で先手は里見倉敷藤花。先手の三間飛車石田流模様に後手が棒金で対抗という戦型に。
第1図から後手が△8六歩と仕掛けました。先手の飛車の捕獲を狙っての動きですが,これはその後の展開からも分かるように明らかに無理筋。もうすでに後手が作戦的に苦しい局面だったのかもしれませんが,先手は普通に対応したという感じでしたので,この仕掛けのために著しく苦しくなってしまいました。
第2図となって▲8四とと引くのが好着想。当然の一手ではあるのでしょうが,と金は引く手に好手ありという将棋の格言を地でいく一手であったと思います。この後も後手の狙いをことごとく封じて先手の快勝となりました。
相手の無理攻めに乗じてではありましたが素晴らしい内容で里見倉敷藤花が先勝。第二局は31日です。
この表象像の連結が,この連結を生じる,いい換えれば何事かを想起する人間の精神のうちで,この人間の身体の刺激状態の秩序に平行的に応じて生じるということは,ただちに,表象像の連結のあり方というのは,各個人によって異なるということを意味します。なぜなら,第二部自然学②公理一によれば,ある物体がほかの物体から動かされる様式は,動かす物体と動かされる物体の両方の本性から生じます。ところで,人間の身体というのは物体にほかなりませんから,たとえば同じ物体Xから動かされる様式は,人間Aの身体の本性と人間Bの身体の本性が異なるだけ異なってきます。そしてちょうどこの様式の相違と同じだけ,人間Aの身体の刺激状態の秩序と人間Bの身体の刺激状態の秩序もまた異なってくるということになるからです。
僕がm先生の話を聞いてかつて僕の口内にできたできもののことを連想した,想起したのは,まさにそのできものがかつて僕の口内にできたことがあったからです。いい換えれば,僕の身体の刺激状態の秩序がそのようになっていたからこそ,僕はこのことを想起し得た,あるいは必然的に想起したといえます。同様に,この闘病記をお読みになった方が,唾石の観念から口内のできものの観念に移行し得たとすれば,それはこの闘病記を読むということによって,その方の身体の刺激状態の秩序がそのように形成されていたからだということになります。
しかし一方で,そうした経験がまったくないという方は,いい換えれば身体の刺激状態の秩序というものがそのようには形成されていない方であれば,こうした想起は生じようがありません。つまり想起することは不可能であるということになるわけで,これはちょうど,スピノザの哲学において必然と不可能が反対の概念であるということにも対応します。かくして表象像の連結というのは,各個人によって相違するのであって,そしてこの相違というものは,それら各個人の身体の刺激状態の相違に並行して生じるということになるのです。