僕のプロレスキャリア以前のプロレスで,僕が最も面白いと感じた抗争の当事者のひとり,ザ・シークは,アラビアの怪人と呼ばれていました。
本当にシークがアラブ人であるのかどうか,また本当にイスラムを信仰していたのかどうかは僕は知りません。しかしプロレスラーとしてのシークはそういうキャラクターであり,試合前には神に祈りを捧げるパフォーマンスを披露していました。そしてその行為は,シークというレスラーの恐ろしさを増幅させる効果というものが,確かにあったように思います。
ただし,僕はプロレスをするプロレスラーとしてのシークに関しては,いっかな評価していません。そもそもシークというのはほぼ場外乱闘オンリーで,リング上ではほとんどレスリングをしませんでした。いわゆるプロレス技はほとんど出さず,殴ったり蹴ったりするだけ。リング上での行為も大半は凶器を使っての攻撃だけでした。
それでもこれはシーク流のプロレスのやり方ですから,とくにどうこういうつもりもありません。ただ,僕がシークを評価できないのは,自分がこうした攻撃しかしないだけでなく,相手の技もまともに受けることを拒否するようなプロレスに終始していたからです。
したがって,シークのシングルマッチというのは,プロレス的な技は一切といっていいくらい出ませんでした。これではさすがに見ていても面白くありません。つまりこの抗争が面白く感じられたのには,シークのパートナーであったブッチャーの功績が大であったと僕は思っています。
スピノザは『エチカ』第二部定理一八備考において,同じ馬の表象像から,軍人と農夫が,いかに異なった別の表象像を連結させていくのかということを示しました。この説明は,僕がm先生の話を聞いたときの連想とちょうど同じ関係にあるといえます。スピノザはこうした表象像の連結についてこれを記憶,実際にはこれは記憶の現前とか想起といった方がより正確なのではないかと思いますが,これは人間の身体の外部にあるものの本性を含む観念の連結であると説明し,この連結は,この連結が生じる人間の精神のうちに,この人間の身体の刺激状態の秩序に応じて,すなわち平行論における平行関係として生じるといっています。
この記憶,想起というのが,外部の物体の本性を含むといわれているのは,人間がこうした外部の物体を表象するとき,その表象像は第二部定義二におけるその外部の物体の本性そのものではないけれども,しかしその物体が現実的に存在するかのように認識する,実際には現前しているわけではなくても現前しているかのように認識するからです。一般に事物の本性というものは,その事物の存在を肯定するけれども否定したり排除したりはしないわけですから,この限りにおいて,ある事物,あるいはもっと正確にいうならば,ある個物が現実的に存在すると認識することは,ただそれだけでその個物の本性を含んでいるということができるのです。
実際,僕がm先生の話を聞いて僕自身にできたあのできもののことを連想したとき,あるいはここでの説明に合わせていうなら,僕があのできもののことを想起したとき,確かに僕はこのできもののことを,現実的に存在するものとして想起したのです。つまり,この僕の想起は,このできものの本性そのものの観念,すなわちこのできものの十全な観念であったというわけではないのですが,それでもなお,このできものの本性を含む観念であったということになります。同様に,この闘病記を読まれている方が,唾石からできものの観念に移行したとすれば,やはりその方のできものの観念,この場合はできものそのものというより,僕が文章で表現しているできものの観念ですが,その本性を含んだ観念であるということになります。
本当にシークがアラブ人であるのかどうか,また本当にイスラムを信仰していたのかどうかは僕は知りません。しかしプロレスラーとしてのシークはそういうキャラクターであり,試合前には神に祈りを捧げるパフォーマンスを披露していました。そしてその行為は,シークというレスラーの恐ろしさを増幅させる効果というものが,確かにあったように思います。
ただし,僕はプロレスをするプロレスラーとしてのシークに関しては,いっかな評価していません。そもそもシークというのはほぼ場外乱闘オンリーで,リング上ではほとんどレスリングをしませんでした。いわゆるプロレス技はほとんど出さず,殴ったり蹴ったりするだけ。リング上での行為も大半は凶器を使っての攻撃だけでした。
それでもこれはシーク流のプロレスのやり方ですから,とくにどうこういうつもりもありません。ただ,僕がシークを評価できないのは,自分がこうした攻撃しかしないだけでなく,相手の技もまともに受けることを拒否するようなプロレスに終始していたからです。
したがって,シークのシングルマッチというのは,プロレス的な技は一切といっていいくらい出ませんでした。これではさすがに見ていても面白くありません。つまりこの抗争が面白く感じられたのには,シークのパートナーであったブッチャーの功績が大であったと僕は思っています。
スピノザは『エチカ』第二部定理一八備考において,同じ馬の表象像から,軍人と農夫が,いかに異なった別の表象像を連結させていくのかということを示しました。この説明は,僕がm先生の話を聞いたときの連想とちょうど同じ関係にあるといえます。スピノザはこうした表象像の連結についてこれを記憶,実際にはこれは記憶の現前とか想起といった方がより正確なのではないかと思いますが,これは人間の身体の外部にあるものの本性を含む観念の連結であると説明し,この連結は,この連結が生じる人間の精神のうちに,この人間の身体の刺激状態の秩序に応じて,すなわち平行論における平行関係として生じるといっています。
この記憶,想起というのが,外部の物体の本性を含むといわれているのは,人間がこうした外部の物体を表象するとき,その表象像は第二部定義二におけるその外部の物体の本性そのものではないけれども,しかしその物体が現実的に存在するかのように認識する,実際には現前しているわけではなくても現前しているかのように認識するからです。一般に事物の本性というものは,その事物の存在を肯定するけれども否定したり排除したりはしないわけですから,この限りにおいて,ある事物,あるいはもっと正確にいうならば,ある個物が現実的に存在すると認識することは,ただそれだけでその個物の本性を含んでいるということができるのです。
実際,僕がm先生の話を聞いて僕自身にできたあのできもののことを連想したとき,あるいはここでの説明に合わせていうなら,僕があのできもののことを想起したとき,確かに僕はこのできもののことを,現実的に存在するものとして想起したのです。つまり,この僕の想起は,このできものの本性そのものの観念,すなわちこのできものの十全な観念であったというわけではないのですが,それでもなお,このできものの本性を含む観念であったということになります。同様に,この闘病記を読まれている方が,唾石からできものの観念に移行したとすれば,やはりその方のできものの観念,この場合はできものそのものというより,僕が文章で表現しているできものの観念ですが,その本性を含んだ観念であるということになります。