スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

銀河戦&十全な観念との相違

2008-03-06 19:41:51 | 将棋
 kuroumaさんが,いきなり三間飛車というエントリーをされました。2月28日に放映された銀河戦Cブロック6回戦,阿久津主税六段と長岡裕也四段の一戦が,ちょうどこの戦型になりましたので紹介します。
 阿久津六段の▲7六歩に長岡四段が△3二飛。以下,▲2六歩△6二玉に,▲9六歩△9四歩の交換が入り,▲2五歩△3四歩。先手はここで▲2二角成といき,△同銀に▲6五角。後手はやはり△7四角と打って第1図。端歩の関係を別にすれば,kuroumaさんの参考3図の形です。
          
 当然▲4三角成△4七角成と馬を作り合い,▲5八金右△7四馬で第2図。馬の働きの差で先手有利というのが解説の大平五段の見解でしたが,これくらいであれば後手も指せそうです。
          
 第2図から▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩▲2八飛としましたが,以下△4二金▲4四馬△3三銀▲6六馬△2二飛▲4八銀△2四歩▲2六歩となってみると,飛車先交換は得だったかどうか微妙な感じです。
          
 第3図からは囲い合いになって第4図。ここで後手が△3五歩と仕掛け,ようやく本格的な戦いに。
          
 しかしここではすでに後手がよかったようです。△3五歩以下,▲2五歩△3六歩▲2四歩△2七歩▲同飛△2六歩▲3四歩△2七歩成▲3三歩成△2四飛と進展。飛車銀交換で後手の駒得となり,優勢になりました。
          
 第5図以下,やや危ないところもあった感じですが,逆転は許さず,後手が押し切りました。

 十全な観念であろうと混乱した観念であろうと,その観念はそれが観念である限りにおいて何らかの肯定ないし否定,すなわち意志を含んでいることに変わりはありません。また,その観念はそうした意志作用なしには考えることができませんが,そうした意志作用はその観念なしに考えることができないという点についても同様です。
 ただし,十全な観念と混乱した観念の関係は有と無という関係を意味します。そして事物の本性はその事物の存在を定立するようなあるものですから,このとき,観念と意志作用との関係における,十全な観念と混乱した観念との相違というのは,十全な観念の意志作用というのがその観念の本性を意味するのに対して,混乱した観念の意志作用は,その観念の本性を意味するとはいえないという点にあるわけです。
 しかし,混乱した観念というのは,それがあるといわれるならば,有限知性,たとえば人間の精神のうちにあるわけで,それが神のうちにある観念と関係付けられるなら,十全な観念なのです。これはこりん星の場合のように,その形相的な対象が無の観念と考えられる場合にも同様であって,この場合には,こりん星の十全な観念を肯定ないし否定する意志作用があり,これはこの観念の本性を意味すると考えていいでしょう。
 そもそも,「ある」といういい方は,あるといわれるものが実在的であることを意味するわけです。なので有と無の関係を離れて,人間の精神のうちに混乱した観念があるというのであれば,この混乱した観念を肯定ないしは否定する意志作用のことを,便宜的にこの混乱した観念の本性であるといっても構わないと思います。十全な観念と混乱した観念を比較するときに,初めてこの相違が問題となってくるからです。
コメント (2)
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