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島成園の生涯ー女性画家との交流を通してー講師:小川知子氏(スケッチ&コメント)

2019-01-14 11:36:39 | スケッチ


小川知子氏

江嵜企画代表・Ken



「堺に生まれた女性日本画家 島成園展」が1月27日まで「さかい利晶の杜」(072-260-4386)で開かれている。1月13日(日)午後2時から小川知子氏による「島成園の生涯―女性画家との交流を通してー」と題する講演会があり楽しみに出かけた。

会館事務局から「小川知子先生は、島成園研究の第一人者で、現在、大阪中之島美術館準備室学芸員」との紹介のあと講演が始まった。会場の様子をいつものようにスケッチした。この日の参加者は予め抽選がありハガキで当選の連絡を受けた限定30名だった。

島成園は、明治25年(1892),堺市宿院で生まれた。12歳の時一家で宗右衛門町のある大阪に移り住むまで堺で過ごした。父の島栄吉は堺で襖絵などを描く絵師だった。母の実家は成田屋というお茶屋で成園は時折預けられた。幼いころから芸妓たちを見て育った。兄は御風と名乗る画家で、本業は引札や団扇絵の図案家である。

成園は幼いころより絵を好んだ。15歳の時に父と兄から絵を学んだ。成園は10代で既に日本画家、北野恒富と新聞小説の挿絵を交代で描いていた。成園は大正元年(1912)秋、第6回文展に「宗衛門町の夕べ」で初入選する。花街で二人の芸妓が夕暮れ時の茶屋の前に佇む姿を描いた絵である。

それまで全く無名だった。女性である。まだ20歳での快挙だと名声は一挙に高まった。小川知子氏は「文展入賞は現在の院展に入賞する比ではない。次々と作画依頼が来て家が建つといはれた。」と説明した。成園は翌年、第7回文展で連続入選を果たす。成園の評価は決定的になった。

妖艶な芸妓の絵から一転して、商家の軒先で、晴れ着を着た裕福な少女たちと、それをうらやましく見つめる庶民の少女を対比して描いた「祭りのよそおい」という絵である。小川知子氏は「成園は知り合いの子供たちを写真で写しモデルにして描いた」と解説した。

大正4年(1915)、23歳の成園は第9回文展に入選する。大正4年から6年にかけて成園は、島成園、岡本更園、吉岡千種、松本華羊で「女四人の会」をつくる。各人文展に入選している。4人は年齢が近い.美人画を描く。仲が良かった。西鶴の「好色五人女」をテーマに展覧会を開いている。

大正7年(1918)から同9年(1920)に成園の環境は一転する。大正7年に「無題」という絵を出展した。右ほほにアザのある自画像を描いた。「あざの女の運命を呪い世を呪う心持を描いた」という言葉を成園は残している。この絵には散々の評価が浴びせられた。

この年、成園は「加羅の薫」を帝展に出し入選する。モデルは成園の母が務めた。成園は大正9年、横浜正金銀行員と結納を交わした。成園の当時の気持ちを伝える新聞記事に「貧乏をしてでも両親や兄から独立して一人の画家として自分を形成しようと決めた矢先既に父と兄は縁談をまとめていた。父親がその時重篤だった。父の愛撫と兄の心づくしに任せるのが運命か」と諦めを見せている。成園は結婚を機に極端に作品の数を落していく。小川知子氏は「成園の活動はこの時事実上終わった。」と説明した。

そして最後に、小川知子氏は「画家として、近代女性として、成園に対する再評価が今進んでいる。男性が大半を占めていた当時の美術界に次々と頭角を現した。その代表が島成園だった。成園は美人画を超えた作品を次々と発表して注目された。それは「無題」であり「加羅の薫」に代表される作品だ。成園は「女四人の会」を結成し、優れた作品を残した。」と話して1時間の講演を終えた。(了)

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