ハリックの診断即治療&虹彩と、Kenさんの経済学&スケッチ

虹彩には、体質や、現在、過去、未来、のデータが秘められています。虹彩学による虹彩分析を針灸、巨針、食事療法の指針に!

「調査屋マオさんの恋文」ドキュメンタリー映画上映風景(スケッチ&コメント)

2019-10-27 08:09:53 | スケッチ



ドキュメンタリー映画「調査屋マオさんの恋文」




佐藤眞生さん、今井いおり監督の挨拶




スケッチ画が施設の廊下に展示された時の様子



ドキュメンタリー映画「調査屋マオさんの恋文」が10月26日、十三シアーターセブンで12時20分から公開され楽しみにして出かけた。映画終了後、佐藤眞生さん、今井いおり監督の挨拶の場面を入れ、会場の様子をスケッチした。

この映画は、一言でいえば、今井いおり監督がまとめ上げた、当欄でもお馴染みの作家の佐藤眞生さんと認知症の奥様、縫子様との愛溢れる闘いの物語である。

奥様の縫子様は昭和5年(1930)生まれ、御主人の佐藤眞生さんは昭和14年(1939)生まれであるから姉さん女房である。奥様は今年2019年6月18日未明に他界された。穏やかなお顔だったと亡くなられた直後メールをいただいた。

映画は奥様とのなれそめのころの紹介で始まる。しかし、「妻のことをなんにもわかっていなかった」と映画の中でマオさんが話す場面が強く印象に残った。

マオさんは高度成長期、当時としては数少なかった市場調査会社を立ち上げた。キッコーマンやパイオニアなどの企業からの調査に没頭する猛烈仕事人であった。

帰宅したある日、子供さんから「お父さん、今度いつ来るの」と聞かれた。家庭は崩壊寸前だった。マオさんは家族との絆を取り戻すことを決意、東京から大阪府茨木に転居、自給自足の生活を始めた。畑仕事するマオさんの様子が映画のシーンにたびたび登場する。

奥様の縫子様は料理教室を開いておられた。2010年ころ突然、料理をしなくなった。それが振り返れば奥様の認知症の始まりだった。「あまり先長くないと思う」とポツリ漏らされたとき「マオさんと一緒にいるときがいちばんほっこりするわ」という言葉で映画は終わる。

私事で恐縮だが、筆者がお送りした花のスケッチを奥様は大変楽しみにしておられたようだ。特に桔梗の花が大好きだった。マオさんがまとめたスケッチ画が施設の廊下に展示された時の様子が光栄にも映画で紹介された。この日、会場でマオさんと立ち話する機会があった。奥様が干支のイノシシの親子の絵を見て「親子が話している声が聞こえる」と言ってました」とお聞きして正直、胸がいっぱいになった次第である。

マオさんは「脳で考えるな。身体の声を聞け」と繰り返す。「人は羊水に帰る」とも話す。「認知症のひとは脳で物事をとらえない。縫子の介護を通して実感する。」と話す場面が出てくる。

マオさんは「認知症」を「認知症」と呼ばない。「朧(おぼろ)」と呼ぶ。朧は間(ま)だ。「間」(ま)とは「真実と真実の間に存在している。「間」こそ真実を伝えている。認知症の人は脳で物事を判断しない。」と塾長を務める「縄文直観塾」でマオさんが力をこめて話す場面が出てくる。

映画は「介護破産」寸前という現実の赤裸々な話も紹介する。貯金は底を付き始め年金だけでは生活できなくなっていた。一台30万もする足漕ぎ車いすを手放さざるをえなくなるシーンは正直厳しかった。足漕ぎ車いすを使うようになって奥様の6日、7日継続した便秘がいっぺんに解消した。ところが、介護破綻で足漕ぎ車いすを手放したとたん9日も便秘が続く事態に見舞われたからだ。介護破綻に際しては長男はじめ家族の援助がありがたかったとしみじみ話される場面が出てくる。

マオさんは介護施設に毎日通い続け、奥様との時間を過ごされた。調査屋マオさんは、日々の奥様の言動を数冊のノートにつぶさに記録にとどめた。記録に基づき映画が作成された。それは正真正銘の奥様との愛の物語である。

「調査屋マオさんの恋文」は十三シアターセブン(℡:06-4862-7733)で11月8日まで1日一回上映だが公開されている。大阪にお越しの際、時間が許せば是非お立ち寄りいただければありがたい。(了)

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする