ミドリ色の屋根は永遠に~René Simardに首ったけ~

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ルネのデビュー50周年記念誌23

2022年03月06日 | ルネの活動記録

Joyeux anniversaire de naissance
à Regis!symbol1guitarheadphones
Je vous souhaite beaucoup de
bonheur.xxx



 3月9日はルネの兄レジス・シマールの62歳の誕生日ですsymbol1

 ナタリーの砂糖小屋が無くなってから、最近はWEB上に彼の情報はありませんが、facebookには時々投稿をしています。お友だちになっているので、お誕生日メッセージを送る予定です。

Nouveau rêveのツアー中のルネ、ロザリー、マリー=ジョゼと一緒の兄レジス・シマール

 ルネの53枚目のアルバム”Condor”に参加したらよかったのに・・・なんて、ふと思いましたが、芸能界の第1線からは退いているので、参加には至らなかったのかもしれません。音楽活動は続けているので、またリサイタルなどの企画が有ると良いです。

 そしてルネの誕生日にはオフ会メンバー全員が、公式ページのビジター投稿にお祝いメッセージを投稿しましたsymbol1 ルネ本人に直接送れるチャットのメッセージには、もちろん既読が付きましたよsymbol1symbol1symbol1 


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 ルネのデビュー50周年記念誌紹介の23回目です。

 今回も前回に続き、ルネとルネの家族にとって辛い内容です。しかし、それを乗り越え、次回はナタリーとの公開和解になります。

TOUT sur l'enfant star
René Simard
L'IDOLE d'un PEUPLE



Une famille brisée 壊れた家族 Part.2

左:このドラマは、ルネとナタリーを含む家族の特定のメンバーを分けています。


Leur père est lui aussi déchiré
彼らの父親も引き裂かれていました


 このドラマは、一族の長であるジャン=ロックを含む家族全員に影響を及ぼしました。 長い間、彼は決して娘のナタリーと話すことはありませんでした。しかし、この沈黙は彼を極めて苦しめました。 ジャーナリストと家族の友人の助けを借りて、彼は本「Au-deja du silence」を出版し、そこで彼は彼のアルコール依存症と不幸について語りました。 彼はこの仕事で彼の家族の何人かのメンバーを傷つけました。

 彼の死の少し前に、彼は娘のナタリーと和解し、3ヶ月間彼女と一緒に暮らしました。 2010年2月22日、彼はラヴァルのシテ・ド・ラ・サンテ病院で78歳で亡くなりました。 彼の死は彼のすべての子供たちが和解することを可能にしました。 彼らは父親の最後の瞬間に再会し、関係を修復しました。



Dommages collatéraux 付随的損害

 彼の興業主の逮捕以来、ルネ・シマールはこの主題に関する質問に答えることを拒否しています。彼が少しだけ打ち明けることに同意した唯一のインタビューは、「Tout le monde en parle(誰もがそれについて語る)」という番組に出演した時のものでした。さらに、その出演は2,422,000人の観客を魅了しました。

 このインタビューの中で、ギィ・A・レパージュはルネに、クルティエに同情しているかどうか尋ねました。
 「私は常に、人間が同じくらい大きな弱点を語る、人間の偉大なる意志の強さを信じてきました。ギィ・クルティエには深い哀れみを感じます。私にとって哀れみは、人が誰かに抱くことができる最悪の感情の1つです。

 ルネは、刑務所に面会に行くことはなく、クルティエに話しかけないだろうと付け加えました。司会者はまた、彼がその判決を公正であると思うかどうか尋ねました。
 「はい、しかし同時に、彼がこの判決を彼の2人の娘、ベロとステファニー、ジョー、彼の妻、残りの家族に課していることを覚えておく必要があり、私はそれを考慮すべきだと思っています。それから、許していただければ、この件についてお話しするのをやめさせていただきたいと思います。2004年は私だけでなく家族にとっても生きるのは非常に困難でした。私がマスコミでそれについて話すのはこれが初めてであり、それが最後です。

 ギィ・クルティエ事件が始まってからずっと後に、付随的損害はルネ・シマールに、個人的にも職業的にも感じられました。さらに、発表から数か月後、人々はいくつかの驚くべきニュースを知りました。ルネは、スター・アカデミーの第3期でディレクターの役割を断念したのです。彼はTVAの経営陣に、「現在の状況では、一歩下がってポストを断念することを選びました」と通知しました。


Nathalie ne peut pardoner
    ナタリーは許せない


 2011年、ジャーナリストが彼女に、彼女をそんなに傷つけた人を許すことができるかどうか尋ねたとき、彼女は答えました。
 「私はまだそこまで到達していません。それができる人たちにブラヴォーと言いますが、私はまだそこにいません。難しすぎます。 そして、私はこれらの暴漢がそれをうまく切り抜けるのを見るのは下品だと思います。2011年に、それはスキャンダラスで、異常で、受け入れがたいものですらあります。法律を変える必要があります。それは常識がありません。


▲▼和解し、ステージで二人のヒット曲「Tourne la page」をステージで歌うルネとナタリー


 父ジャン=ロック氏が「ミドリ色の屋根」の歌詞さながらに、家族と別居し、母ガブリエルと離婚した原因は、喘息に加えアルコール依存症のためということも1つですが、クルティエ氏の陰謀説もあるようです。
 しかし、死を目前にしたジャンロック氏によって、シマール家は再び繋ぎ合わされたのでした。

 「ナタリーは許せない」を翻訳している途中で、父の死をもってしても、まだルネのことが許せないのだろうかと思っていました。何故なら、父が亡くなった2010年2月から、ルネとナタリーがステージで公式和解したとされる2011年9まで1年以上ありましたし、それ以降も二人が共演する機会がほとんどなかったからです。
 しかし、「ナタリーが許せない」のは、名前こそ出ていませんが、クルティエ氏。そして、自分のつらい過去と同じ経験をしている女性や子供たちを救いたい一心で、活動を立ち上げました。その活動のテーマ曲となったのが、「Je veux vivre(私は生きたい)」でした。

 次回は「ナタリーとルネ・シマールの公式和解」です。家族のことや、デビュー50周年を迎える現在までのキャリアで、大変苦労した時期の内容はもうこれでお仕舞symbol1


 そして、「ルネ友のみなさまへ」の記事が出る前に、teacupのサービスが今年2022年8月1日(月)13:00で終了することになりました★ 現在書籍化と他の無料ブログへの移転に向けて始動しています。

 この記事でもすでに1039記事ですので、全ての記事を移動するのは難しいです。画像はエクスポートできないため、再度入れ直す必要があります。まずは書籍化して記録を残し、それを見ながら出来るだけ元の記事に近づけたいと思います。

 これから大変な作業になりますが(泣)、ルネのデビュー50周年記念誌の翻訳は終わっているので、それ以降は内容を短くしても継続していくつもりです。移転先が決まりましたら最新記事で報告いたします。

コメント
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