アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

対馬丸撃沈と島田叡・荒井退造

2024年06月04日 | 沖縄と戦争
   

 那覇市の対馬丸記念館開館20周年を記念するシンポジウム「『対馬丸』から学ぶ子どもと平和~平和な未来をともに創るために~」が1日、那覇市内で行われました(写真中=琉球新報より。写真左は記念館に展示されている対馬丸のレプリカ)。

 対馬丸は1944年8月22日、九州の疎開先へ向かう途中、鹿児島県の悪石島沖で米軍潜水艦に撃沈されました。犠牲者は氏名が判明しただけで1484人、うち学童は784人に上ります(2日付沖縄タイムス)。

 2日付の琉球新報、沖縄タイムスによれば、シンポでは「対馬丸」を児童・生徒が「自分ごと」として捉えるための学校現場の取り組みが紹介され、今なお海底にある対馬丸から遺品を引き揚げることや、3Ⅾスキャンで視覚化すること、語り部の後継者の育成など今後の課題も話し合われました。

 重要な議論ですが、対馬丸撃沈を今日そして今後の平和に生かすためには、けっして欠かせない視点・教訓があります。
 それを的確に示したのが、「対馬丸撃沈 地上戦へ県民に疎開命令 軍が口止め 危険な海へ」という見出しの沖縄タイムスの記事(5月28日付)でした。(以下、抜粋)

<1944年夏、日本は沖縄の地上戦は免れないと判断した。沖縄近海はすでに海の戦場となっていたにもかかわらず、軍が徴用した船舶に多くの県民を乗せて疎開させた。対馬丸が撃沈される前にも、17隻が沈められていたが、日本軍の軍事機密として箝口令が敷かれていた。撃沈を知らずに乗船した県民が多かった

 サイパンが陥落した44年7月7日、政府は緊急閣議で沖縄・奄美の住民の疎開を決定する。鹿児島、沖縄の両県知事に緊急指令を発し、沖縄から九州へ8万人、台湾へ2万人を送る疎開命令を伝えた。

 県民にとっては疎開の緊急性は「寝耳に水」で納得できなかった。箝口令で戦況は知らされておらず、家族との離別や、海の危険性への不安などから、手をあげる県民は少なかった。

 難航した沖縄県は警察部に特別援護室を設置し、疎開業務を推進する。7月19日、「学童集団疎開準備ニ関スル件」という指示を各国民学校校長に送付した。

 箝口令は続き、学童・一般疎開は45年3月までに約7万人が、延べ187隻の船で宮崎・熊本・大分県へ避難した。>(5月28日付沖縄タイムス)

 沖縄県知事は日本政府の指示に忠実に従い、箝口令で戦況を知らせないまま、警察の力で、戸惑う学童・市民を強制的に疎開船に乗せたのです。

 重要なのは、その張本人である県知事に島田叡が含まれ、疎開を強行する先頭に立ったのが、島田とともに「島守りの塔」などで美化されている荒井退造警察部長だったことです(写真右の左が島田、右が荒井)。

 島田が沖縄に知事に着任したのが45年1月31日、荒井が沖縄県警察部長に任命され沖縄に赴任したのが43年7月1日。上記の経過から、荒井の主な任務が疎開の遂行だったことが分かります。

 島田も荒井も天皇制政府の内務官僚でした。任命されて沖縄に赴任した彼らは忠実に政府の決定・命令に従い、日本軍と一体となって沖縄県民を戦争に巻き込みました。

 軍隊とともに、天皇制官僚が沖縄戦はじめ先の戦争でいかに重大な犯罪的役割を果たしたか。市民に情報を与えない箝口令(報道・言論規制)がいかに甚大な犠牲を招くか。それを今日に生かすのが「対馬丸撃沈」からくみとるべき教訓です。

 ところが、その島田や荒井が美化されています。「本土」の人間が美化する映画をつくり本を出版し、沖縄のメディアがそれを後援し、「平和・民主勢力」内でも両者への誤った評価がいまもまん延しています。

 報道の限りでは、1日のシンポでも、島田や荒井への批判的言及はまったくありませんでした。
 上に引用した沖縄タイムスの記事は優れた記事ですが、そこでも島田・荒井には一言も触れていません。

 島田・荒井の誤った美化を払拭し、天皇制内務官僚として果たした役割を正確にとらえ、今日の教訓にすることは、沖縄にとっても、「本土」の日本人にとってもきわめて重要な課題です。

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