アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「国家」より「個人」―いまこそ「兵役拒否」の思想に学ぶ

2024年06月17日 | 国家と戦争
   

 「祖国のために命を捨てるというのは、相当高度な道徳的行為であるということは間違いない。…国というものに対して、自分の命を捧げるというのは、大変な勇気のあることだ」―河村たかし名古屋市長が記者会見(4月22日)でウクライナ情勢に触れてこう述べ、物議をかもしたことがあります(5月2日のブログ参照)。

 この発言はなぜ問題なのか。「良心的兵役拒否」を研究している市川ひろみ・京都女子大教授(写真右)が、15日付の朝日新聞デジタルのインタビュー記事で解明しています(以下、抜粋。カッコは記者の質問)。

<(「祖国」とは何なのでしょうか)
 「祖国」とは何かという問いに、一つの「正しい回答」はないと思います。国に対する思いは人それぞれです。オリンピックなど国対抗戦となると、普段は意識していなくてもナショナリストになる人も多いでしょう。そうやって、知らないうちに「国」、ナショナルなものに自分を結び付けて感じることは恐ろしいことだと思っています。生身の人が見えなくなって、旗や歌で扇動され、他の人を敵視するようになりかねないからです

 (「兵役拒否」という視点からみたとき、河村発言のどこが問題でしょうか)
 兵役拒否は、個人の内面の自由を尊重するために、権利として保障されるべきだという考えです。当初、兵役拒否者は、国民が担うべき義務を果たさない存在であり、「真っ当な国民像」からの逸脱としてとらえられてきた時代がありました。しかし、国家が個人の内面に介入することは許されるべきではなく、個人の内面の自由を保障しなければならないという考えが広く認識されるようになってきました。個人の信仰や信条は国家に従属するものではない、と。河村発言は、人の命だけでなく、人間の尊厳や内面の自由を軽視していると思わざるを得ません。

 (「平和国家」のかたちが変わってきているように見えます)
 話し合いではなく、相手を力(軍事・経済など多様)で言うことを聞かせることがよい、とされる社会も反映しているように感じます。とりわけ、安全保障の議論では、「国家」「国際情勢」の観点が強くなり、「人間の安全保障」の観点からの議論が後景に退いてしまいます。日本に住む一人ひとりの安全を考えれば、食糧やエネルギー、治安、差別、環境、教育など多様な側面があります。日本国憲法前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とうたわれています。この考え方を大切にすべきだと思っています。

 日本では、自己犠牲こそが尊いといった考えが社会に強く残っていると感じます。戦争末期、敗戦を予想しつつもお国のために潔く散った特攻隊員は、英雄視されました。人々は、国家の方針に従って若い命を捧げることを称賛することで、「大切な人を悲しませたくない」という思いや、「死にたくない」という思いを尊重しないばかりか、国家の方針に疑問を呈する人や徴兵から逃れようとする人々を非国民として追い詰めました。河村発言を許してしまっている私たちは、誰かが「祖国のために命を捨てる」ことを推奨し、自分たちの命や尊厳をも粗末にしてしまう道を準備していないか問われていると思います。>

 たいへん共感できる指摘です。記事は「河村発言」に焦点を当てていますが、市川氏の指摘はむしろ、ウクライナ戦争をめぐる一連のメディア報道に対して該当するのではないでしょうか(写真左・中はウクライナで兵士となった市民の妻たち)。

 メディアは一貫してゼレンスキー大統領の「徹底抗戦」を支持し(煽り)、「祖国を守る」ために自分や家族の犠牲を顧みないウクライナ市民を賛美しています。あたかも特攻隊員を英雄視するように。

 こうした一連の報道こそ、国家が「祖国のために命を捨てる」ことを推奨すれば、自分たちの命や尊厳をも粗末にしてしまう道を準備しているのではないでしょうか。

 そしてそれはもちろん、日米軍事同盟(安保条約)によって急速に戦争国家化が進行していることと無関係ではありません。

 「国家」よりも「個人の内面の自由、そして命と尊厳」。この「兵役拒否」の思想をいまこそ学び広げることが求められています。

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