アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記306・映画「あんのこと」にみるコロナ禍と性暴力

2024年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム
 映画「あんのこと」(監督・脚本・入江悠、主演・河合優実、佐藤二朗、稲垣吾郎)は「実話にもとづく映画」だ。

 幼い時から母親によるDVを受け、食事も与えられず、万引きを繰り返し、小学校にも行けなかった杏。14歳で体を売ることを強制され、薬物依存に。

 そんな杏が、依存症脱却の自助グループを知り、介護施設に非常勤で働きはじめ、夜間中学で漢字や算数を習い始める。言葉のなかった杏が言葉を取り戻し、その表情は別人のように変わった。

 そこに「コロナ禍」が襲った。介護施設からは「休暇」を言い渡され、夜間中学は「全国一斉休校」(安倍晋三の愚策中の愚策)によって閉じられた。杏が電気を消して真っ暗になった教室が象徴的だった。

 それでも懸命に生きようとする杏。しかし―。

 この映画を観ようと思ったのは、「コロナ禍」で起こった政治、社会の事実、その意味が忘れかけられているのではないか、いや、私自身が忘れかけているのではないか、という思い、自覚があったからだ。

 重大な出来事が起これば、その事実を正確に記録し、意味を分析し、後世に教訓を残す。人間社会においてきわめて重要なその作業を、日本(人)は一貫して怠っている。その典型は、1894年(日清戦争)~1945年の侵略戦争・植民地支配の加害の歴史だ。

 それは、2011年の東日本大震災・東電原発「事故」にも引き継がれ、今、2020年以降の「コロナ禍」でも繰り返されようとしている。「のど元過ぎれば…」は日本人の悪しき特性だ。

 期待通り、「あん」はそんな日本社会、私自身への警鐘になった。その意味で一見の価値がある。

 だが、この映画を推奨する気にはならない。なぜなら、予想しなかった大きな欠陥があるからだ。

 それは、性暴力に対する捉え方・描き方の欠陥だ。

 映画の限りだが、杏を死に追いやった元凶は、「コロナ禍」というより、むしろ信頼していた刑事(佐藤二朗-好演)の背信であり、その根源にある彼の性暴力だ。しかしその描き方がきわめて甘い。加害者を美化しているとさえ思える場面もある。

 これは「コロナ禍」を告発している意義を帳消しにするほどの欠陥だ。
 性暴力の加害に甘い日本の映画、メディア、社会。それをあらためて痛感することになった。

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