ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

戦争と言うもの

2010年08月17日 | 思い出話

           「ペチュニア」   尼崎・スポーツクラブ・ウッディ  (10-7-24)


2週間ぶりにウッディに行きました。夏風を引いてしまって、10日ほど咳に悩ま
されました。そのほかは何処も悪くないのですが、動くと咳き込むのでじ~っと
しているより無かったのです。はじめに頂いた薬が効かなくて、「風邪喘息」と
言われ、喘息の薬を貰いました。咳薬が効かない人が増えて、この喘息の吸
引薬を使うと止まる人が増え、だんだん使用するようになっていると言う事とで
した。おかげさまで3日ほどで激しい咳は止まりました。

昨日初めて、庭の手入れを2時間ばかりして、大丈夫だったので、今日身体を
動かしに行きました。後遺症で声が嗄れていますが峠は越えたと思っています。



先週の徹子の部屋は「戦争を語り継ぐ」と言う事で、実際に戦争体験者のお話
を聞く時間でした。その1日に裏千家玄室さんが特攻隊で生き残っているご自
分について語っておられました。

玄室さんは言われました「私が死ぬまで私の戦争は終わっていない」特攻隊員
でありながら、生き延びた自分に複雑な思いを持ち続けておられるようでした。

「お父さんには悪いけど、みんなお母さ~んと叫んで死んで逝ったと思います」
映画などでは「天皇陛下万歳!!」と言ったと描かれていますが、生きて帰れ
ない、片道の燃料を積んだ飛行機で、目的地に飛ぶ時、その行動自体は「お
国の為、天皇陛下の御為」の行動ですが、胸に浮かぶのは故郷に残した親、
兄弟のことではないでしょうか。

特攻隊員は20前後の若者であるので妻帯者はまれのようでした。

その飛行機で鹿児島の知覧の基地から彼らが向かったのは「沖縄」なんです
よね。沖縄の方は「何で沖縄だけが…」「本土の人は沖縄をほって置いた」と
か言われますが、日本中から集められた若人が命を捨てて沖縄を守る為に志
願して、死んでいったんですよ。

「何で沖縄だけが…」と言われてもアメリカが本土を攻撃するのに距離的に都
合のいい沖縄を選んで攻めてきたわけです。本土の人が「沖縄で戦争しましょ
う」と言ったわけではないのです。だから全土から沖縄を守る為に若者が招集
されたのではないですか。乗り込んでしまえば(トラブルがおきない限り)帰航
するべき燃料は無く、体当たりして死ぬしかない飛行機で助けに行ったんです
よ。だから「沖縄だけが…」と言うのは間違っていると思います。

本土も空襲を受けました。1回の焼夷弾の爆撃で何万と言う人が亡くなりまし
た。我故郷神戸も昭和20年3月17日に大空襲を受け、我が家も跡形もなくな
りました。私の母も焼夷弾の破片を身体に受けました。命が助かっただけであ
りがたいと思っています。このことを知ったのは11月に神戸に帰り、「これがそ
の時の傷よ」と見せられた時に初めて知ったのです。

沖縄に行った時「摩文仁(まぶに)の丘」の「平和の礎」(礎=沖縄の方言で
いしじと読む)で戦争でなくなった方々(地上戦で亡くなった人だけではなく、一
般民も敵国の人も外国人も)の名前が刻み込まれているのを見たときに、「この
人たちは、こうして生きていた証しがある。でも本土で命を失った人たちはそれ
すらないのです。沖縄の人の方が幸せちゃう」と思いました。

沖縄の地で命を落とした人全ての名を記したのは、沖縄の人の死者への敬虔の
念がそうさせたのでしょう。

A級戦犯が合祀されているから靖国に参らないと言う閣僚たちを持つ今の日本
を恥ずかしいと思います。

戦争は大なり小なり全国民の運命を変えました。「お国の為」と若い命を散らし
た人がいるのだから、命永らえた者がとやかく不足を言うことは無いと思います。

基地問題にしても社民党は「全島一致」と言いますが、基地があればこそ、生活
の糧を得ている人も反対でしょうか、何事も良い面も悪い面もあるのではないで
すか。寝ていた子を起こしてしまった、民主党がどのような裁きをするのか、お
手並み拝見するしかない私ですが…。





     
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親子ってなに?

2010年08月16日 | 気にかかる

        「アプチロン」 三色ありましたが この色だけが残りました  (10-7-7)


昨日15日は終戦記念日でした。私は集団疎開先である加古川で、先生から聞
きました。私達も子どもながら事実を受け止める戸惑いで、お互いにむやみに
喋り続けたことを思い出します。それからしばらくそのままにそこで過ごし、11
月に焦土と化した神戸に帰ってきました。

私の家も全焼した為、知人を頼って、平野に住むことになりました。全財産を
失った親達の苦労が始まりました。先日テレビで東京で焼け出された人達が
国に補償を求めたということを知りました。何故? 65年もたってからですか?
そのとき苦労をしたのは私達の親世代です。親達は「戦争だから、仕方が無
い…」と一生懸命むごい運命を受け入れて頑張りました。

補償を求めているのは私達世代の方です。母が「罹災証明書」を貰ったことは
知っていました。その事で助けられたという話は聞いていません。勿論「あの
戦争で焼け出されなかったら…」と言うことは何度も何度も考えました。苦労
なく生きていけたのにと…。でも本当に苦労したのは母親の世代です。苦し
いなりに親の庇護の元に生きてきたのですから。

少ない配給品を、母はまず私に食べさせました。自分の時間が欲しいからと言
って、わが子に飲み物も食べ物も与えず、遊び歩いて、二人の子を餓死させた
母親。若い母親と新聞は書きますが、婚期の早かった戦前の人は23歳にもな
れば一人や二人の子持ちだったと思います。あの厳しい時代をやはり一人で
(父親は戦地)子どもを育てたのです。

「遊ぶ」何て事は考えられない戦時中と、時代が違うといえばそれまでですが、
又晩婚の今では若い部類に入るのでしょうが、自分の選んだ道でしょう。たと
え離婚していても夫方の親に頼めばきっと面倒見てくれたと思いますよ。たと
え頼りたくなかったにせよ、「子どもの命」と「自分の感情」とどちらを選ぶべき
だったでしょうか、答えは一つ「子どもの命」ですよね。

昔は「親・子・孫」までは家族と言う考えでした。それが今は「親・子」までが家
族と言う感じです。きうすになったとはいえ、そこまではとは思いもよりません
でした。100歳以上の方の不明者です。我ふるさと神戸がダントツに多かった
そうですが、それは震災に関係あるように思います。特に多かったのが長田区
です。ここは火事の発生が多かった区でもあります。

震災後15年も過ぎていますから、いいわけにはなりませんが、その時期では
ないかと言う気はします。親子でありながら何十年もその消息を知らない…
考えられないことです。でもそれが事実なんです。少数の人であるとはいえ、
日本人はどうなってしまったのでしょうか?

私達が小学生のころ、校庭には背には柴を背負い、歩きながら勉強する「二宮
金次郎」の銅像がありました。今でも山村の小学校には残っているのを見かけ
ます。「修身」と言う時間があって、人間として、しなければならない事を教えて
いました。

私達は毬つき遊びのとき歌っていましたよ。

『 芝刈り縄ない 草鞋を作り
  親の手助け 弟を世話し
  兄弟仲よく 孝行尽くす
  手本は 二宮金次郎 』  

こんなことを教えてはいけないですか? 今の子より、私達の方が幸せだった
かも知れない…と考える時があります。




          「金連花」 こぼれ種で咲きました 吊り鉢です   (10-7-5)
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オユキさん元気?

2010年08月13日 | 思い出話

   「ルドベキア」の種類だと思うのですが…     ↓  ガレージの屋根を抜いて高く咲いています


今日はお坊さん待ちの一日と覚悟していました。ところが7時過ぎに見えたん
です。お盆のことですから10分ほどでそそくさと帰られます。「今から30軒以
上廻るので、夜まで掛かります」と言っておられました。駐車違反が厳しいの
で奥様が同乗されているそうです。10日から15日までお盆のお勤めがある
そうです。今日も6時から寺を出られたそうです。


オユキさん元気? メキシコではお葬式以後は取り立てて何も無いって言って
いましたよね。だから日本に来ていますか?ご主人も一緒ですよね?こちらに
はご両親も末の妹さんも、そして私をとても可愛がってくださったお祖母さん
も居られるしね…。

そして貴女を偲ぶ側としては、妹さんや弟さんや、上海時代からの親友あけみ
ちゃんや私達友達もいますしね。

今日は一日貴女のことを思い出していました。貴女が、日本に最後にこられた
のは、2008年3月22日に東京に着いて5月8日日本を発ったのでした。

日本に来るとスケジュールを知らせてくれましたね。それを聞いてから、会う
ためのセッティングをするのが私のお仕事でした。

東京に着いた始めの1週間と4月の下旬の1週間は東京でした。東京ではメキ
シコ駐在だった方達と旧交を温めていましたね。4月下旬の東京行きのときは、
一人の方の別荘に泊り込んで、マージャン大会をするのが常でしたね。皆さん
貴女の早い死に驚かれたでしょうね。

細かいスケジュールを知らせて頂いて、電話で連絡を取りながら、こちらのス
ケジュールを作るのが私の楽しみでした。同期会があるときは事前にメキシコ
に知らせておきましたからその時期に帰ってきてくれましたね。今年も中学と
高校の同期会があるので。どちらかに帰ってきませんか、と知らせたばかりで
したね。
 
私ははっとりさん宅に二人で行ったのが最後だったかな~、それともクラス会
だったかな~と考えていました。今日手帳を出して確かめてみました。同期会
が4月15日。翌日二人で、はっとりさん宅へ。そして私達がいつも花見をさ
せていただく中田さん宅が4月28日。5月始めには何時もの通り4人組で会
う予定でしたが、一人はご主人の看病で、もうひとりが体調不良でおじゃんに
なりましたから、最後になったのは4月28日と言うことになります。

中田さん宅は坂の上なのでズックをはいてきてといったのですが、ハイヒール
しか持ってきてないとヒールで、と言うよりはいつも自動車が足のオユキさん
には少し無理な距離だったのでしょう。だから私は中田さんに「自動車でJR
の駅まで送ってください」とお願いして、もう一人こすぎさんと二人送っても
らいましたね。残ったみんなで「またね~」と見送ったのが最後のお別れにな
るなんて、誰が想像したでしょう。

人との「さよなら」は大切にと言う言葉は知っていてもわが身に起こるとは思
わないのが人間でしょうか?

長生きするということは若い時には想像できなかったような老いへの体調の変
化と親しい人との悲しい別れを経験することなんですね。

オユキさん貴女は全てに私より優れていました。でも偉ぶらない貴女がとても
好きでした。私は元気な貴女しか知らないから、思い出の中の貴女は元気です。
色んな思い出をありがとう。貴女との思い出を大切にしますよ。




           正統派の「ひまわり」と思います?   武庫之荘 (10-7-7)

                     実は矮性の鉢植えでした
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赤めだか

2010年08月12日 | 読みました

         「百日紅」 とても綺麗な色でした    わが町角で  (10-8-1)


今日は曇りで、とても過ごしやすい一日でした。お盆の時期、今は都会より、
田舎が賑やかなのではないでしょうか。 

我が家では明日お坊さんがこられることになっています。「まだかまだか」
と一日待つ日になりそうです。今の時代、月参りをお願いする家はだんだ
ん減っているそうです。その日を束縛されるのが嫌なんだそうです。知人
もやめました。「あんたとこもやめたらいいのに…」といわれました。体調を
崩せば、逸れも考えなければなりませんが、生まれた家も毎月お坊さんを
迎えておりましたし、この家に来てからもそうですから、私の中では生活の
一部になっております。

といいましても信心深いと言うわけではありません。先日も日蓮宗の伝道
大会(4年に一度)の時も、身延山に行った時も、皆さんがすらすらとお経
を上げられますので、「恥ずかしいな~、一寸は練習(こんな言葉を使う事
自体間違っていますね)しとこか?」と言っていたのですが、二人とも今は
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」状態です。

月一度、良いお経を聞かせてもらうほうが、御先祖さんお喜びでしょう」と
勝手な理屈をつけております。


       赤めだか     立川談春(だんしゅん)

本の帯に『サラリーマンよりらくだと思った。とんでもない、誤算だった。落語
家前座生活を綴った破天荒な名随筆』

私は読みながら「赤めだか」と言う本のタイトルの意味を探しました。読みき
っても見つけることは出来ませんでした。「どういう意味があるのだろう?」考
えましたがわかりませんでした。判らないはずです、意味は無いようです。は
じめは雑誌に連載されていて別の題名でした。本にすることになり「題名は?」
と考えたのがこの題名だったそうです。だから意味は無いようです。

本文の中で師匠談志が談春にこういいます。「己が努力、行動を起こさずに
対象となる人間の弱みを口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、
これを嫉妬というのです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自
分は安定する。本来なら相手に並び、抜く為の行動、生活を送ればそれで
解決するんだ。しかし人間はなかなかそれが出来ない。嫉妬しているほうが
楽だからな。芸人なんぞそういう輩の塊みたいなもんだ。だがそんなことで
状況は何も変わらない。よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、
世の中がおかしいといったところで仕方ない。現実は事実だ。そして現状を
理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかと言う原因がある
んだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせな
い奴を俺の基準で馬鹿と言う」

なるほどね~、その通りだわ!と思いました。談志さんは私と同い年、やは
り戦争体験もし戦後の苦しい生活も同じく経験しているでしょう、何となく共
通点も感じます。ちょっと、斜に構えた物言いが反感を買うこともあるので
しょうが、言っていることに間違いはないと思います。

同い年、同学年と言うだけで親近感を覚えるって事ありますでしょう?談志
さんや小沢征治さん(彼とは誕生日も一緒)は大病を乗り越えられたようです
が、いつまでも頑張っていただきたいと思っています。

「談志」と書いて「イエモト」「談春」と書いて「オレ」とルビが符ってありました。

先日、落語家のざこばさんが言っておられましたね「相撲は弟子を取れば一
人に付きいくらかのお金が相撲協会から入ってくるが、落語の場合は、弟子
の費用はみんな師匠もち、よ~さんお金入ります」。落語も日本独特のもの
でしょう?末広がりに成長していって欲しいと思います。

談志さんのように落語協会から飛び出した方は、その苦労も大変でしょうね。



  「ひまわり」ですよね  八重のひまわりって始めてみました  夏本番!の我町で (10-8-1)
    
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麗しのサブリナ

2010年08月11日 | 一寸そこまで
    
               宝塚歌劇団・花組 「麗しのサブリナ」 のチラシ

8月10日(火)は「宝塚」に行ってきました。いつものとおり阪急友の会の抽
選で当たったからです。何時もは春秋には葉書を出しますが、夏は暑いか
ら出さなかったのですが、今年はどういうわけか出したようです。

近年はいつも一人で行っていたのですが、今度は何方か誘おうかな~と思
って出したら当たったのです。その話を主人にすると「行って見たい! 行
く!!」と言うのです。歌舞伎で寝る人ですから、むりかな~と思ったので
すが、連続的に音楽が聞こえるから、大丈夫かな~と、一緒に行くことにし
ました。

何時もは早めに出て開演までに植物園に行くのですが、主人は行きたくな
さそうだし、私も夏風邪気味なので、今回は歌劇オンリーと言う事で我慢
しました。

昔は何度か「SS席=12000円」と言うのが当たったことがありますが、近
年はいつも2階の後ろの「B席=3500円」ばかりでした。ところが今日は2
階席ですが前から3番目中央の「S席=8000円」が当たりました。抽選引
換券を持って、当日、封筒に入った座席券を自分で選ぶのです。ですから、
当日まで何処の席で見れるか判らないのです。

私は花組のスターとか、お気に入りの人があって見に行くのではなくて、レ
ビューを懐かしんでいるだけですから、一応オペラグラスは持参しますが、
手に取ることは余りありません。主人一人が盛んに目に当てていました。

その主人に感想を聞くと「眠たかった」そうです。

私が宝塚を見に行ったのは、小さい時に祖父が宝塚温泉に行った帰りに、
私に見せたのが初めだと思います。小さい子どもの記憶ですから間違って
いるかも知れませんが、舞台は今のように立派なものでは無かったと思い
ます。

戦後になって、当時仲良しだった友達がヅカファンで、毎月見に行った舞
台の話を聞かせてくれました。彼女は「久慈あさみ」の熱烈なファンでした。

結婚後も、彼女の家の女中さんの娘さんが「宝塚の舞台に立って、良い席
が手に入るのよ、行かない?」と誘われていったことがあります。彼女はそ
の時すでに運転していましたから、彼女の車で送り迎えしてくれました。又
次に誘われた時、彼女が「ぎっくり腰」になっていけなくなり、私一人で行っ
た覚えがあります。

メキシコのオユキさんとも行ったのですが、彼女が財布を落として、見て
いなかったと思います。当時は早くに並んで席を買うため、朝1番の阪急
に乗るため、彼女の家に前の晩から泊まりこんでいたのです。一寸でも早
くと言う事で一駅手前の「南口」で降りて、走るのです、その時に落としたら
しいのですが、「南口」まで探しに戻りましたが、財布があるはずありません。
私が二人分のお金を持っていたはずもなし、二人の帰りの電車賃でカツカ
ツだったと思うのです。だから見なかったと思います。

宝塚一つにも、こんな色々の思い出が在ります。ふつふつと湧き出してくる
思い出を楽しむのも、今の私の宝塚の楽しみかも知れません



  ↑  宝塚劇場入り口・ロビー正面です     ↓  ピアノが「スミレの花咲く頃」を弾いています


    
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広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式

2010年08月09日 | 一寸そこまで

                           ポスター


8月6日(金)今年も又、広島の式典に行ってきました。4回目になります。年々
参加者が増えてきている気がします。ボランティアの車椅子もフル回転していま
した。

ところが例年なら目だし帽にのぼりを持ってシュプレヒコールの兄チャンたち
が入り口でのお出迎えなのに、今年は姿がありませんでした。どうしたのでし
ょうね、かえって気になりました。

例年通り、息子とは式典が終わったら会うという約束で別行動です。私はいつ
も陣取る場所へ人波をかき分けて前に出ます。式場に到着するのがいつもぎり
ぎりですから、ドームまえのに立っ人は豆粒のようにしか見えません。声はス
ピーカーから流れてきますので大丈夫です。

今年は国連総長や米国大使や英国、フランスも始めて参列されたようです。外
国の参列者は74カ国にのぼったそうです。核保有国ロシアは11年連続での参
列ですが、中国は2年連続欠席だそうです。何か含むところあり?

アメリカは「戦争を早く終結させるために原爆を落とした」といい、決して悪
いことをしたとは言いません。一般人を20万人も、逸れも、何で自分の命が
奪われたかも知らないなくなり方をした犠牲者のことを考える時、なんとむご
いことをと思うのですが、アメリカの報告書には「2度の実験は成功」と記さ
れていると読み、かの国によれば新型爆弾の実験でしかなかったのかと、
悔しさがつのります。

だからアメリカ大使の参列は本国では反対もあるようです。無言の謝罪に取
られかねないからと。良し悪しは別にして、戦争と言う中で起こった出来事で
すから、アメリカが「悪かった」と言わないほうが、日本のように何でもかん
でも「私の方が悪かったのです」と謝り続け、政府間で解決済みのことをも
蒸し返して、謝ろうとするより良いように思います。

こうして何度も足をはこび、その席に身をおきますと、自分の気持ちに変化が
起きてきているのを感じます。もっと国防費を増やして、自衛隊を大きくする。
どういう形でかはまだわかりませんが、被爆国だからこそ、「核」を持ったほ
うがいいのではないか?「核」は戦争に治する抑止力になるのではないか?と
か、その場に身を置いてこそ見えてくることもあるような気がします。

                       2010.8.6の空

                       平和の使者の鳩の放鳩


    
         ↑  献花をする人々       ↓  献花を待つ人々の長~い列
  



     沢山のカメラとともにインタビューを受けるこの人は誰? 有名人か?


上のインタビューを受けている人は、私のそばで座っていた人なんですが、カ
メラマンの人が来て、「お話を聞きたい…」と言うようなことを言っていました。
その後で娘さんと二人インタビューを受けていたのですが、娘さんはもう一人
いました。そばだったので、何となく目立つ人だな~と思ってみていましたか
ら、インタビューを受けているのを見て「やっぱりな~」と思いました。

式典が終わって、献花の列に加わりました。ここでも外国のカメラマンが多い
な~と感じました。

「平和記念資料館」に行きました。入ってすぐ「8時15分を指して止まってい
る時計」の所に真っ直ぐに行きました。「この時計は私の兄のものです」と説
明してくれた人の顔を求めてです。去年もいませんでしたし、今年もいません
でした。「どうしてかな~?」なんだか寂しい気がしました。彼女は私と同い
年だといっていました。お元気なら、今日この場にいないはずが無いと私は
思うのですが…。

4回目ですから、陳列の品はす~っと流しました。そしてビデオを見ることに
しました。ビデオも色々在って、「被爆者の当日の思い出話」を選びました。
10人の方のお話を聞きました。その中で印象に残ったお話は『その時は広
島には「黒、白、赤」の色しかなかった。緑が無かった』

一瞬の爆風で自分自身も飛ばされ何も無くなった。そして空高くもくもくと黒
い雲が登った。そして火事がおきその赤とけが人の血の赤色、そこには一
瞬にして、爆風になぎ倒された家の残骸があったが、草木の緑は無かった
のです。
                                 

                   被爆した「アオギリ」の実 





上の「アオギリの木」は爆心地から1.3K離れた土地で被爆し、幹が2つに引
き裂かれながらも、やがて芽吹き生きています。今は1973年(昭和48年)
5月に「平和資料館」の隣に移植されています。種を育て、学校に植えてもら
っているようです。



午後からは「広島市現代美術館」に行きましたが、現代美術と言うものが、現
代人でありながら、私には理解できませんでした。何を表しているのかがよく
わからないのです。仕切られた大きな部屋に1点または数点づつ、大きな空
間の中に贅沢に飾られています。

「絵画」と言うよりも、「映像」が多かったように思います。これもまた判ったよ
うな判らないような映像です。

又本人も参加する(実験する)ものもありました。係りの人に勧められてやっ
てみました。不思議?に面白いものがあり、これでやっと来た甲斐があった
かな?と思いました。因みに65歳以上は無料でした。
                                  (1440回)

                ☆  明日お休みします






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老兵の消灯ラッパ

2010年08月05日 | 読みました

               「ヤブラン」  今年は沢山咲いています



暑い暑い! と言うことしか言葉が出ません。朝早くに買い物を済ませ、1日中
テレビのお守りでした。午前中は民主党の議員の質問でしたから、各大臣のお
顔はにいわでした。お互いにお世辞を言い合いながら和やかムードです。

午後からは公明党、みんなの党、その他の反対勢力ですから、又暗~い顔に
逆戻りです。菅さんは相変わらず、答えにならない答えを、でも本人は「何度も
答えています」って、私でさえ、答えになっていない、そんな事を聞いていない」
ってイライラしているのに、本人はこれ弁解に終始しています。ほんとに意思の
疎通が出来ない事があるんですね。



            老兵の消灯ラッパ  佐藤愛子

佐藤さんは87歳、私より1回り上の「猪」だそうです。ご自分を老兵にたと
えて、作家生活も終わりに近づいた、と言うことを言っておられるのでしょう。

80も過ぎると、気になることがあっても、違うということがあっても、若い頃のよ
うに噛み付けないといわれます。そういえば、昔の佐藤さんは「歯に衣着せぬ」
と言う物言いをする方でした。今でも時々「○○を如何思われますか?ご忌憚
の無いご意見を…」って電話があるそうですが、昔のように答えられないと書
いておられます。

その代わりとはいえないのですが、今は曽野綾子さんがびしびしと言っておら
れます。政治に関しては櫻井よしこさんもご自分の意見を書いておられます。
櫻井さんの講演会に行きたくて、先日も申し込んだのですが、抽選で外れてし
まいました。今年になって二連敗です。

佐藤さんは北海道にも家を持っておられて、いつもなら娘さんとお孫さんが一
緒にいかれるのですが、今年は二人とも駄目だというので、行くのをあきらめ
ようと思ったが、北海道の友人から「いつくるの?」と電話が来ると、無償に行
きたくなる。しかし一人で行くわけには行かない。倒れた時の用心の為に、友
達を誘うのだそうです。X日~X日まではX子さん、その次は○子さんと言うよ
うに、一日といえども自分ひとりにならないように計画を練る。そして、地元の
人も呼ぶ、あの人もこの人も呼びたくなる。そして、その世話でへとへとになる。
でも「人間が好き」だから「人を呼ぶ」と言う。

私も元気なうちは人と接していたいと思います。へとへとになるまでと言う自信
はありませんが、そこそこ人と交わっていたいと思っています。

命の終わりを告げるものとして「消燈ラッパ」と言う言葉を使って、最後の最後
まで人と交わっていたいと思っておられるようです。

最後にこう締めくくっておられる。

『日に日に私は弱っていた。疲労が顔に出ているのだろうが、人は気がつかな
い。人間好きの私は、人と接していると「元気」が出てくるからなのである。そし
てヘトヘトになる。ヘトヘトにさせたほうが悪いのではない。ヘトヘトになってい
るくせに「元気」なのがいけないのだ。もっと言葉少なく、目から力が無くなれば
いいのだ。だが、私はそうならない。ならないのではなくなれない。なぜかと問
われれば私はこういうしかない。「たぶん、これは私の性格と言うより病気でし
ょう」と。そして付け加える。「おそらく私は、死ぬ時も元気で死ぬんじゃないで
しょうかね」相手はあきれて笑う。それが私には満足なのである。ヘトヘトにな
りながら』
                ☆ 明日お休みします。


               「グラジオラス」 今年はこの色と黄色しか咲きません
     
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テレビの中の政治家達

2010年08月04日 | 気にかかる

          「グロキシニア」     大塚国際美術館  (10-7-19)


早い早い! もう8月になって4日の日が過ぎてしまいました。今年のこの暑さ
は例年通りですか? 私にはそうは思えません。異常と感じます。家に居てク
ーラーに助けられていても、何となく身体に暑気が篭っているような気がしま
す。

一日中、テレビの前で、予算委員会を見ていました。菅総理の答弁になります
と俄然眠気に襲われます。何となく心此処にあらずという感じで、下を向いて
ぼそぼそと話します。

弁解の話の途中に「?」となります。「答えになっていない、それてるよ!」と
テレビに向かって叫んでいます。何故だらだらと長いのか?問題点をそれる
のか? まず、弁解が多いのです、そして「あ~なんです、こ~したつもりな
んですよ」と長いものですから、弁解に終始して、中心から逸れてしまうのだ
と思いました。 

仙谷官房長官の(西田さんの発言に対する)「耳をほじくって…」の言葉には驚
きましたね。「弁護士だから私の論点は正しいよ」といわんばかりの物言い。日
韓の決め事をいいとは思わず、もっと補償をすべきだといいながら、今日は否
定した。この方はその場その場で言葉を覆すのですね。今日は認めたが、明日
からは又覆すのか…。何とも情けない人です。

文部科学大臣の答弁もなって無かったですね。「朝鮮高等学校授業料無償化」
の件です。現在有識者で討論をしているところといいますが、その内容は秘密
裡は勿論ですが、有識者の氏名もシークレット。賛否両論の意見の人を選んで
いるだろうか。疑問が沸く。賛成派ばかりを選んでいるとしたら、何の為の委員
会かと思ってしまいます。悲しいですね、信じることの出来ない人を「長」に持
つということは…。

昨日一昨日とテレビを見ることが出来なかったのでビデオに撮って置いて、今
日見たんです。石破さんの質問の時の民主党の大臣方の映像が面白かった
ですね。石破さんが声を張り上げることもなく、淡々と、諭すように話されるのを、
大臣方はただただ聴講生のように聞き入っている姿…、石破さんの話し上手に
聞きほれていたのでしょうか? 見事に全員身動ぎもせず石破さんを見つめて
いたように見えましたよ。


もう一つの話題「子ども手当て」について発表がありました。日本在住外国人
の海外に住む子どもは7746人。その費用は約2億円だそうです。単純計算
しますと、1年間に12億円になるのですよ。その中には父親が単身赴任で海
外で働いている人の子ども、日本人ですよ! その子どもには支給されないの
ですよ。こんな変なことあります。それなのに長妻厚労相は「私は更に上積み
したい」といいます。何を考えておられるのでしょうね!! 世論の声は聞こ
えないのでしょうか?





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京都・西本願寺

2010年08月03日 | 一寸そこまで


絵画展だけではもったいないかなと言う事で、駅から徒歩10分の「西本願寺」
(2012年に親鸞聖人の750回忌に当たる為、10年間かけてご修復を終えた
御影堂を拝観の為)を目指しました。始めはバスに乗る予定が昼食後でもあり、
「腹ごなしに歩こう」と言う事で歩きました。さすが京都、外人さんが多いです。
それも男も女もリュック一つのバックパッカーの一人旅が目に付きました。帰り
に乗ったタクシーの運転手が言っていましたが「外人さんはよく歩く!」って。

東本願寺は子供の頃から幾度と無く行っています(実家の宗旨です)し、息子
達が小さい頃は連れて行きました。大広間や廊下や太い柱に大喜びでした。し
かし西本願寺は今度が始めてです。主人も始めてのようでした。外から眺めた
ことはありますが、門を潜ったのは初めてです。

    

    

まず休憩所で涼みました。そこで御影堂(ごえいどう)の10年がかりの修復の
様子をビデオで見ました。上の写真はその修復なった屋根です。この修復で又
何百年も維持できるそうです。平成の宮大工による平成の大修理と言っていま
したね。

   

    
    

上は阿弥陀堂の前の「大銀杏の木」で、幹周り6.5cm、樹高7mだそうです。
京都市指定の天然記念物です。樹齢推定400年だそうです。



こちらは御影堂前の「大銀杏」で樹高は4m、幹は16.5mと高さよりは横に
伸びている変わった樹形です。共に同年代のものだろうといわれています。


               御影堂の内部 ↑            ↑  廊下


御影堂の方が阿弥陀堂よりず~っと大きいです。お坊さんが一人モップで祭壇
周りのお掃除をしていました。作法があるのか、見ていると、四角定規にモップ
を動かしていました。

消火栓のテストをしていましたので見ていますと、事務方の人でしょう「火事が
こわいですからね~、国宝を守るのも大変です」と話しかけてこられました。



阿弥陀堂門です。豪勢ですが小ぶりです。御影堂門は大きいが質実剛健と言う感
じでした。


   国宝の唐門      ↑ 外側(柵が高すぎて全体が上手く写らない)   ↓ 内側 



    
    

今日の楽しみは、この「唐門」でした。綺麗なので飽かず眺めていると日が暮
れるということで「日暮門」といわれたそうです。しかし正面入口から少し外
れていますので、訪れる人は疎らでした。せっかく来ながら惜しいな~…。

本当に綺麗でしたが、私達がそこに着いたのが、何しろ一日中で一番暑い午後
3時です。暑さには勝てず早々に引き上げました。帰りはタクシーで京都駅ま
で、そこでお茶をして一休みしました。

日本中何処に行っても古いふるい歴史があります。多くの建造物も残っていま
す。それも「紙と木」で出来ている建物です。昔の人の技術の凄さを改めて
「すばらしい!」と喝采です。
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片岡鶴太郎展

2010年08月02日 | 一寸そこまで
    
                   「入場券」と「チラシ」同じでした

京都伊勢丹・駅ビルの美術館「えき」に行ってきました。初めての美術館です。
鶴太郎さんの絵はNHKテレビの絵画教室で講師を務めて居られるのを見て
以来、みたいと思っていました。

今回で、京都の展覧会は5回目だそうです。そして画業15周年記念だそうで
す。一辺5~6cmのものから屏風まで大小さまざまでした。

驚いたことに絵画だけではなく、着物、陶器(伊万里焼き)などにも挑戦されて
いて驚きました。特にガラス食器への色付けはとても綺麗でした。着物は私の
好みではありませんでしたが…。

鶴太郎さんが絵を始められたのは、ある朝、背中に何か視線を感じたそうです、
振り向くと、そこには「椿」が咲いていたそうです。「描いて頂戴」と言うように。
その時描いてみたいと思ったそうです。そして色々椿を描いていますと、椿の
葉が「私も…」と言っているように感じて、「葉」も描き始めたそうです。

私は「椿」のことはまったく知らなくて、鶴太郎さんの絵=魚だと思っていたの
です。主人はテレビでず~っと見ていたので知っていたそうです。

「魚」は勿論ありましたし、「野菜」もありました。「京野菜」の「南京」がとても
炊き上がったら美味しいだろうな~と言う感じでわたしの心を捉えました。残
念ながら「絵葉書」にありませんでした。

下の葉書で「ふぐの上に恵比寿さん」の絵がありますね。あれは知人の家で
見つけた置物だそうですが、無理を言って、1週間借りて帰って描かれたそう
です「福の上に福」こんな目出度いことは無いと添え書きがありました。

良寛さんがお好きらしく、良寛さんの言葉に対しての絵が数枚ありました。

「月の夜」と言う絵は満月が夜空に浮かんでいるのですが、その月が輝いて見
えたのが、墨一色なのに驚きでした。

異色は野球のイチローの小学生の時の作文(いかに小さい時から、野球が好
きで練習したか、大人になったら野球選手になりたい)にグローブとボール?
が描かれていました。

先日、友人のひがしなかさんの絵画展に行った時に、全体の感想として(自分
は書かないくせに)「私はサインはとても大切だと思うのよ、その位置や大きさ
がね」といいました。いいえ絵だな~と思っても、その絵の品位を落とすような、
下手に大きな字だったり、似つかわしくないサインが多かったからです。

鶴太郎さんのサインを見て、私の感じ方は間違っていなかったと思いました。
絵によって「つ」だけだったり「鶴太郎」だったり位置も又さまざまでした。「絵」を
引き立てこそすれ、決して邪魔をしていません。やっぱり「サイン」って大切だと
思いました。

今まで見た展覧会と一寸違った感動だったと主人は言いました。私もそう思い
ました。「私も絵を描いてみたい!!」と言う思いがこみ上げてきました。絵
は描けないと思っている私が「私にも描けるかも知れない」と思ったのです。
こんな気持ちにさせる「絵」って凄いと思いませんか?




                  私が大好きだった「墨牡丹」
    絵葉書を5枚買いました  安い紙だったので あまり発色が良くありません


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