ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

親子ってなに?

2010年08月16日 | 気にかかる

        「アプチロン」 三色ありましたが この色だけが残りました  (10-7-7)


昨日15日は終戦記念日でした。私は集団疎開先である加古川で、先生から聞
きました。私達も子どもながら事実を受け止める戸惑いで、お互いにむやみに
喋り続けたことを思い出します。それからしばらくそのままにそこで過ごし、11
月に焦土と化した神戸に帰ってきました。

私の家も全焼した為、知人を頼って、平野に住むことになりました。全財産を
失った親達の苦労が始まりました。先日テレビで東京で焼け出された人達が
国に補償を求めたということを知りました。何故? 65年もたってからですか?
そのとき苦労をしたのは私達の親世代です。親達は「戦争だから、仕方が無
い…」と一生懸命むごい運命を受け入れて頑張りました。

補償を求めているのは私達世代の方です。母が「罹災証明書」を貰ったことは
知っていました。その事で助けられたという話は聞いていません。勿論「あの
戦争で焼け出されなかったら…」と言うことは何度も何度も考えました。苦労
なく生きていけたのにと…。でも本当に苦労したのは母親の世代です。苦し
いなりに親の庇護の元に生きてきたのですから。

少ない配給品を、母はまず私に食べさせました。自分の時間が欲しいからと言
って、わが子に飲み物も食べ物も与えず、遊び歩いて、二人の子を餓死させた
母親。若い母親と新聞は書きますが、婚期の早かった戦前の人は23歳にもな
れば一人や二人の子持ちだったと思います。あの厳しい時代をやはり一人で
(父親は戦地)子どもを育てたのです。

「遊ぶ」何て事は考えられない戦時中と、時代が違うといえばそれまでですが、
又晩婚の今では若い部類に入るのでしょうが、自分の選んだ道でしょう。たと
え離婚していても夫方の親に頼めばきっと面倒見てくれたと思いますよ。たと
え頼りたくなかったにせよ、「子どもの命」と「自分の感情」とどちらを選ぶべき
だったでしょうか、答えは一つ「子どもの命」ですよね。

昔は「親・子・孫」までは家族と言う考えでした。それが今は「親・子」までが家
族と言う感じです。きうすになったとはいえ、そこまではとは思いもよりません
でした。100歳以上の方の不明者です。我ふるさと神戸がダントツに多かった
そうですが、それは震災に関係あるように思います。特に多かったのが長田区
です。ここは火事の発生が多かった区でもあります。

震災後15年も過ぎていますから、いいわけにはなりませんが、その時期では
ないかと言う気はします。親子でありながら何十年もその消息を知らない…
考えられないことです。でもそれが事実なんです。少数の人であるとはいえ、
日本人はどうなってしまったのでしょうか?

私達が小学生のころ、校庭には背には柴を背負い、歩きながら勉強する「二宮
金次郎」の銅像がありました。今でも山村の小学校には残っているのを見かけ
ます。「修身」と言う時間があって、人間として、しなければならない事を教えて
いました。

私達は毬つき遊びのとき歌っていましたよ。

『 芝刈り縄ない 草鞋を作り
  親の手助け 弟を世話し
  兄弟仲よく 孝行尽くす
  手本は 二宮金次郎 』  

こんなことを教えてはいけないですか? 今の子より、私達の方が幸せだった
かも知れない…と考える時があります。




          「金連花」 こぼれ種で咲きました 吊り鉢です   (10-7-5)
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