已ニ軍法會議ノ構成モ定マリタルコトナルガ、
相澤中佐ニ對スル裁判ノ如ク、優柔ノ態度ハ、却テ累ヲ多クス、
此度ノ軍法會議ノ裁判長及ビ判士ニハ、正シク強キ將校ヲ任ズルヲ要ス
と仰せられたり ・・・本庄日記三月四日
二月二十九日夕刻
代々木軍刑務所に収容された叛乱将校たちは、
憲兵の強制捜査によっていっせいに訊問を受けた。
憲兵は三月二日には軍法会議に事件を送致した。
それから予審官の手によって予審から始められた。
予審官は日曜休日も無休で訊問を行ったが、
一人の被告に多くの時間をかけることができない。
なにしろ 百二十三名の第一次裁判は
陸軍省の方針としては 約一カ月半を予定していたのであるから、
事はいそがねばならない。
この予審がおわったのが四月中旬、
それから公訴が提起され公判が始まったのが四月二十八日。
香田大尉以下二十三名は一号法廷第一班で左の裁判官により裁判をうけた。
判士長 騎兵大佐 石本寅三 (陸軍省)
判士 兵科将校四名
法務官 藤井喜一 (近衛師団)
検察官 竹沢卯一 (近衛師団)
公判廷は四月上旬 軍刑務所に近い代々木練兵場の一隅に急造されたが、
鉄条網で二重、三重に囲まれ、その公判には各所に機関銃をすえた歩哨が立つという、
ものものしい警戒ぶりだった。
だが、その審理は全くの急速調で、
一人一人に同じことを審理するのは時間的に無駄だというので、
被告人たちの互選で代表者だけに応答させ、
異論のある場合だけ手をあげて各被告人に発言させた。
こうして一カ月あまりで結審となり、六月五日には求刑されたのである。
しかも、この求刑があってから一カ月後の七月五日には、
もう判決を下してしまったのである。
こんな裁判であったから、彼等被告たちの怒りははげしかった。
もともと、彼等は公判闘争を誓って自決を思いとどまったのであるから、
大いに冒論をもって闘うことを決めていた。
だが、それはすっかり当てがはずれたうえ、この極刑となったので、
憤激はひととおりではなかった。
・
淸原少尉は
「 ある日 澁川善助がたまりかねて絶叫した。
裁判長、裁判長が職務トシテヤッテオラレルコトハワカリマスガ、
コノ裁判ハ一體ナンデスカ、私タチガ命ガケデ國ノタメニヤッテキタコトガ、
マルデ泥棒以下ノヨウナ裁判デハナイデスカ、同志ノ中ニハ裁判官ヲ勤メテキタ將校モオリマス。
ナゼ、二・二六ガ起リ、ソシテ二・二六ノ經過ハナゼアノヨウニナッタカヲ
天下ニ明ラカニシ 生キタ裁判ヲスルコトガデキナイノデスカ。
コノ裁判ハ特別軍法會議デ一審制デアリ 上告ハデキナイシ、
非公開、辯護人ナシトイウコトハ、
裁判ノ當初ニキメラレテイタコトデ、イカントモシガタイ。
シカシ 君タチガイウコトハ制限シナイシ、
ナンデモ裁判長ハ聽クツモリダカラ、思ウ存分イッテクレ。
云イ終ッタ裁判長ノ眼ニハ涙ガ浮ンデイタ。
裁判長ノ氣持ヲ察シテ澁川モウナダレテシマッタ 」 ・・清原手記
と、伝えている。
栗原安秀は
ソモソモ今回ノ裁判タルソノ惨酷ニシテ悲惨ナル昭和ノ大獄ニアラズヤ。
余輩靑年將校ヲ拉致シ來リ コレヲ裁クヤ、
ロクロク發言ヲナサシメズ、豫審ノ全ク誘導的ニシテ策略的ナル、
何故ニカクマデナサント欲スルカ。
公判ニ至リテハ僅々一カ月ニシテ終り ソノ斷ズルトコロ酷ナリ。
政策的ノ判決タル眞ニ嚴然タルモノアリ。
既ニ獄内ニ禁錮シ外界ト遮断ス、何故ニ然ルヤ。
と 遺書している。
安藤輝三は
公判ハ非公開、辯護人モナク ( 證人ノ喚問ハ全部脚下セラレタリ )
發言ノ機會等モ全ク拘束サレ、裁判ニアラズ捕虜ノ訊問ナリ。
カカル無茶ナ公判ナキコトハ知ル人ノ等シク怒ル処ナリ。
と、鋭く裁判の不当を衝いている。
このような、将校たちの裁判へのいかりは、
おしなべて、その遺書につづられているが、
しかし、その中に一貫して流れるものは、
この裁判が初めから極刑という既定の方針をもって臨み、
これに都合のよいように、
予審から公判まで誘導したものだとしていることである。
村中孝次は、
澁川氏は一として謀議したる事實なきに謀議せるものとして死刑せられ、
水上氏は湯河原部隊にありて部隊の指揮をとりしことなく、
河野大尉が受傷後も最後まで指揮を全うせるに拘らず、
河野大尉受傷後 水上氏が指揮をとりたりとて死刑に處したり、
噫、昭和現代における暗黒裁判の狀かくの如し、これを聖代とてうべきか--・・続丹心録
と、この裁判がことさらに極刑にするために事実を歪曲した点を指摘し、
磯部浅一は、
新井法務官が七月一一日安田優君に
『 北、西田は二月事件に直接関係はないのだが、
軍は既定の方針にしたがって両人を殺してしまうのだ 』
と いうことを申しました。
軍部が彼等の自我を通さんがために、ムリヤリに理窟をつけて、陛下の赤子を殺すのです。
出鱈目とも 無茶ともいう言葉がありません。
軍の既定方針とは何でありましょうか。 ・・獄中手記
と 訴えている。
すなわち、軍、とくにその幕僚は
すでに全員の死刑を方針として、初めから臨んでいたので、
ただ、裁判は これに理由をつけるためのもの、
しかも 死刑にするためには事実まで曲げているのだというのだ。
しかも、このような軍幕僚の策動は、至るところにあったとして、
磯部はこんな事例まで挙げている。
大蔵大尉以下数名の同志は不起訴になることにきまっていて、
前日夕方迄は出所の準備をしていたのですが、
陸軍省の幕僚が横車を押してムリヤリに起訴してしまいました。 ・・獄中手記
幕僚の策動といえば、
のちの真崎ケースでもその疑いがあるように、
真崎大将はその遺書 「 暗黒裁判 」 に 述べている。
「 十二月二十七日には看守長 加藤髙次郎君が私の室に来り、
『 検察官より釈放の命令がありましたから、只今物品の整理中です 』
と 内報してくれた。
他に二、三の看守も同様のことを洩らしてくれたので、私は大いに待ったのだが、
結局、いつまで待っても何とも申して来らず お流れになった。
後で聞けば 陸軍大臣より電話にて停止命令が来たそうである。
しかして公訴提起となった 」
・
軍がこの事件に臨んだ態度は、初めから峻厳であった。
したがって東京軍法会議が厳罰方針を堅持しておったことは事実であるし、
また、この公判には常に陸軍省の圧力がかかっていたことも蔽えない。
裁判官はその良心に従って判決するというけれども、
陸軍大臣を長官としたこの軍法会議では、
陸軍省法務局はその補佐機関であり
これに軍務局 とくに軍事課、兵務課あたりの発言も力強く作用したことである。
そこでは初めから死刑を既定の方針としたことは、
その確証のないかぎり、
にわかに断定することはできないにしても、
軍が厳罰方針を確立していたこと、
また 軍法会議が中央の方針に忠実であったことは、
間違いのないことである。
次頁 暗黒裁判 (四) 「 裁判は捕虜の訊問 」 に 続く
大谷敬二郎著 二・二六事件の謎 裁判へのいかり から