相澤三郎中佐
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相澤中佐遺影
三、風格雑錄 (ニ)
相澤中佐は令息正彦君の為め座右銘として、
畏敬する諸先輩の揮毫を集めて 「 雛鳳帳 」 と題している。
以下載せる数通の書翰は、
中佐が収容後代々木原頭の衛戍刑務所から愛児に宛てて出したもの、
中佐が子女を教養するに如何に真率熱心であるかを窺ひ、
且つその聲咳の一端を伝へる為め、これを蒐録する。
◇ ◇
四、雑録 ・・・雑録 『 腕力に訴ふるが如き暴挙は慎んでなすな 』
八月十四日 ( 宣子殿宛 ) ( ・・・中佐最近の書信・八月十四日 )
「 親の命に意見を伝ふてもよい 」
と先生から聞いたと云ふことを誤つてはいけない。
大事な事だから説明する。
父三郎は幼少のころ評判の親孝行だつたが、之は全く恥しい次第であるが、
親を懐ふ至情は幼年学校 殊に中央幼年学校で幾夜人知れず泣いたものである。
是は親が有難い懐しい余りで理屈ではない。
親 殊に父親の御薫陶で大君を懐ふことも漸次増し
近頃は中央幼年学校時代と同様に大君を懐ふて人知れず泣くことがあるばかりでなく、
相済まぬ 「 壮心剣を横へ功なきを恥づ 」 と南洲が申されたが、
同様に全く申訳ないと思ふ流涕。
この方が正しいと思つた行ひに対して若し親が何んとか言はれたら、
始めて親に謹んで意見を申し上ぐるも悪くないだらうが、
御前等の母が思はるる至情を心肝に銘じ妹弟に率先し毎日励むことを要望する。
先日海水浴から帰り静子が下駄の緒を切らした時、
迎へに来て居つた母が徒足になつて母の履物を静子に与へられたのを見ただらう。
忘れてはならないぞ。
しからないで妹や弟のよく云ふことを聞くやうに工夫しなさい。
御前等は然し皆おとーさんの幼いときよりも親孝行だよ。
荷物は返送して
尠くも来年春までは居を更へないで皆学校も更へないで居つた方がよいと思ふ。
此のことは母とも相談してきめたらよいと思ふ。
父は殊の外丁寧な麹町憲兵分隊の御世話になつて
其の後も亦此所に各位の手厚い御取扱ひを受けて出発前の下痢も全快し
何一つ不自由不足なく壮健で居る。
皆呉々も安心せよ。一同の健康を祈る。
八月十四日 父三郎
御一同様
◇ ◇
九月二十日 ( 静子殿、正彦殿宛 ) ( ・・・中佐最近の書信・九月二十日 )
秋のよい天候になつたようだから、
道子をはじめ皆屋外で運動をして丈夫な身と立派な心持を養ひなさい。
本日四日附の正彦の手紙も大層よろこんで見ました。
昨日も亦静子よりの手紙と正彦の画と書方の大部好くなつたのを見ました。
皆一生懸命に勉強して居ることが能くわかりまして非常によろこんでいます。
殊に私の心持をちやんと承知して居ると云ふことを何よりうれしく思ふ。
私も至極壮健で毎日運動もし、勉強もし、規則正しく心地よく日を送つていますから安心して下さい。
次に一、二心懸けを申します。
一、常に姿勢を正しくすること。
二、汗をかいた後よく拭くこと。
三、雨天の際 殊に電車の踏切りに注意すること。
尚鈴木主計さんに御礼状を差上げましたことを母さんに申上げて下さい。さようなら。
九月二十日 父より
静子殿
正彦殿
皆々様
◇ ◇
九月二十七日 ( 宣子殿宛 ) ( ・・・中佐最近の書信・九月二十七日 )
随分雨が降り続きました。
折角の御彼岸も沈黙でしたらう。
然し皆元気そうでうれしく思ひます。
おとーさんの所では運動も出来、御菓子や牡丹餅の甘いのを頂きまして、
雨は降つても有難い祭日でありました。
御蔭で至極元気です。
今日より天気も続きませう。
皆愉快に学校に通ふことが目の前に見へている。
顧れば本年は大変雨が多かつた。
大部水害で困つて居る人も多かつたと思ふ。
此の冬は此度天気が続いて乾燥し、殊に鷺の宮はほこりが立つだらう。
咽喉を痛めない様に今から注意することが必要です。
「 うがひ 」 もよいですよ。
黒川先生に和尚さんの薬を言ふてやりました。
仙台の屋敷のことは別に記憶が確かでないから鈴木氏と安藤氏とに私から出した手紙がありました。
問ひ合はして取りよせて相談されるのもよいと思ひますが、
若し問ひ合せても不明な時には松山の意見等を参酌して昨日おかあさんの御考への通りでよいと思ふ。
おかあさんにも、静子ちゃんにも、正彦にも、道子ちゃんにもよろしく。
さようなら。
二十六日夕 父より
宣子殿
学校はどーですか。
◇ ◇
十月十六日 ( 正彦殿宛 ) ( ・・・中佐最近の書信・十月十六日 )
昨日は宣子ねーさんが元気なく訪れてきたことは
本十四日朝になつてその理由がわかりました。
父は覚悟のことであるからなんとも思はない。
福山で別れる時言つたことを心に銘じて
少しのことで長い間曇つた心を持つていてはいけないよ。
生死は命あり、唯時所を得るのみであります。
獅子は三日にして可愛い赤坊を千仭の谷に投ずるではありませんか。
紊りに憂愁を以て忠魂を損ずることは厳にいましめなさい。
想起せよ。
大義桜井駅前途茫々として妖雲天に迷ふも別に弱気心を起すべきに非ず。
唯正に聖訓を奉戴して進みなさい。
妖雲は自ら消散します。
正彦は朝ねぼーではないか。
天気の朝は富士山が見える筈です。
未だ左手で書描する癖がとれないではないか。
大部皆上手になりましたねー。
おかーさんの言ふことをよく守つて皆一生懸命に勉強しなさい。
おとーさんは非常に元気だよ。
十六日 父より
正彦殿
おかーさんや、宣、静ねーさんや道子ちゃんにも、尚大野大佐殿にもよろしく。
述懐 十月六日
神州男子坐大義 盲虎信脚不堪
誰知万里一条鉄 一剣己離起雨情
述懐 十月十一日
丹心挺身揮宝刃 妖邪移影無常観
唯膺聖恩期一事 二八閑居無秋心
述懐 十月十五日
善勝悪敗浮雲如 危乎同胞八千万
永夜静宵間大空 天辺払雲仁兄誠
呉々も皆元気でやりなさい。さようなら。
◇ ◇
十一月一日 ( 道子殿宛 ) ( ・・・中佐最近の書信・十一月一日 )
道子や大変元気になつたそーだが、かぜをひかないよーにしなさい。
正彦は大変よくお母さんの云ふことを聞くそーだねー。
踏切の百姓やさんに毎日ただいまをするそーだが、大層よいことだ。
いつまでもやりなさい。
静子はのどが悪いから学校から帰つたら何時でも塩水でうがいなさい。
又宣子はお母さんを助けてやつて下さい。
ねーやは姿勢をよくしなさい。
胸は必ずなほる。
此の歌は去る十七日の述懐でした。
さらでだに立ち去りがたき神の国
雲の上石の上なる駒草を想ふ
皆しつかり元気を出してよいことをしようと心がけて行くやうになさい。
尊い人になりなさい。
尊い人とは偉い人と云ふのではありません。
正しい人、尊い人になる様になさい。
私は大層元気ですから御安心下さい。
さよーなら。
十一月一日稿 父より
道子殿
× × ×
( ・・・雑録 )
◇ 在福山市の一老人からの書信を載せる。
因に 「 小生相澤氏とは未だ一面識無之、文通せしことも無之候得共、
書中の青年を通じ互に 『 宜しく言ふて呉れ 』 的の挨拶を交せし仲に有之 」
と追伸してある。
未見の知己、真に相澤中佐を語るものと言ひ得やうか。
皇国の政治は 「 祭事 」 と心得申候
「 親が子に臨むが如し 」 と解し居り候。
然るに大正以来の政治は
「 駈引 」 「 策略 」 を以て終始し居り候事は
小生体験を以て之を承知罷在候。
殊に昭和と成りては
政府は娼婦にも劣る白々しき詐欺虚言を吐いて
平然たるに至りては何とも申様も無之、
皇国として刺客の起るは当然の儀と存候。
相澤中佐殿が永田を誅されし理由を、陸軍省公然の発表として新聞に発表せられし処を読むに、
曰く 「 謬まれる巷間の浮説を妄信し云々 」 と。
嗚呼、吾相澤中佐は単に世間の噂を盲信して軽挙妄動するが如き
オツチヨコチヨイ、三文奴には無之候。
歩兵第四十一聯隊の将兵が心より語る処に聞け。
曰く
「 隊中の将兵は中佐を高山彦九郎と呼べり 」
「 隊中の将兵一人として中佐を悪く言ふものなく、皆其の謹厳にして温厚なるに心服せり 」
「 中佐は不言実行の人なり 」
と。
而して小生が玆に軽挙妄動に非ざる証拠として特筆仕り度は、
中佐が永田を誅すべく上京さるる時、小生指導下にあり常に中佐に私淑しありし一青年
( 中学校を卒業し、目下青年団長を勤めをる ) が岡山まで同車せしが、
中佐は同青年に訓へて曰く、
「 此際青年として勤むべきは皇魂の宣布である。腕力に訴ふるが如き暴挙は慎んでなすな 」
と。
自己は今君側の奸を除かんとして行途にありつつ
農村青年団長に向つては、団員に皇魂の扶植を訓論し、
青年の熟して為す易き軽挙妄動を訓戒せらるる如きは、
之果して 「 巷間の浮説 」 に心を狂はすが如き者の為す可き行為に御座候や。
永田鉄山なる匹夫が自己の奸才を弄して皇国を蠧毒きくいむしどくしつつありし事は、
十目の視る処、十指の指す処に御座候。
殊に今回の人事に就き、鉄山が中心になつて大いに力をつくしたる事は新聞にすら載り居り候処、
然るに陸軍当局は自ら欺き 而して人を欺き 以て其の威信を保ち、
統制を図らんと策せるも 是れ却つて陛下の皇軍を冒瀆し奉り、
世人より侮辱さるるの基と成り、益々統制を乱す者に外ならず候。
長上の命令に服従するは啻ただに陸軍の規定たるのみならず実に人道に御座候。
然れども苟いやしくも皇国の御為めに成らざる事を看過し自己一身保安の為め荏苒日を送るは、
本当の---口頭だけでなく---日本精神を有する者の肯んぜざる処に候。
故に陸軍の幹部にして真に統制を欲するものならば、権力を以て部下を威圧するの妄念を去り、
真に部下軍人をして心服さすに足るの行を執らんことを敢て忠告致度候。
× × ×
( ・・・雑録 )
◇ 中佐の一辱知じょくちの寄せた文
一、昭和七年頃私が中佐殿に初めてお会ひした時、いたく感動したことはその大自然的な風格であつた。
言行の総てが自他を詐らざる、無理のない、極く自然なそして雄大なことであつた。
初対面の時笑ひ乍ら申された言志録の一章
「 身に老少ありて心老少なし、気に老少ありて理に老少なし、能く老少なきの心を執つて
以て老少なきの理を体すべし 」
は、其の後私の生活の基準になつた。
二、昭和九年二月頃中佐殿が中耳炎を病んで慶応病院に入院しておられた頃
私は友人と二人で御見舞いに行つた。
私共が病室に入つて直感したことは病状の只ならぬことであつた。
患部を繃帯して寝台の上に呻吟して居られる姿は傷々しい限りであつた。
「 中佐殿如何で御座いますか 」 と申上げると、
中佐殿は苦痛を噛みしめて奥様を呼ばれ無理に寝台の上に起き、
「 ハイ、相澤の病気はいいです。Y君はいけない。部屋に入った時の敬礼がいけない。
I 君は少しいい。然し君は礼儀を知らぬ。
上官の部屋に入つて外套もぬがぬ様な将校はいけないのだ 」
と、いきなり注意を受けた。
私共が冷寒をおぼえて恥入つて威儀を正すと、
「 それでいいそれでいい 」 と申されて満悦至極の態であつた。
その時中佐殿はこんなことも言はれた。
「 私は今は病気を治すことだけする。
若い偉い人が居られるから御維新の事はその方々にたのむ 」 と。
私共がやがて病室を辞し去り、靖国神社に参拝の途次二人はつくづく中佐殿の偉さを語合つた。
三、中佐殿は退院して間もなく私の宅をお訪ね下さった。
木綿絣かすりにセルの袴をつけ、日本手拭を腰にはさんだ例の通りの質素な服装で、
「 やあ I さん、入院中お見舞いの節は大変叱つたさうですネ、
ハツハツハー--- 」 と割れるやうな大声で笑はれた。
雑談している中ヒヨイと私の落書した高杉晋作の詩
「 真個浮世価三銭 」 の句を床の間に見つけて、いきなり剥ぎ取つて
「 これはいいこれはいい これ下さい 」
と言ふなり懐にねぢ込んでトントンと階段を降り、
さよならと言葉を残して帰つて行かれた。
私は友人と中佐殿の人生観の奥深い所を交々語り合つたが遂ひに語り尽し得なかつた。
後感二、三
一、相澤中佐殿は何故切腹しなかつたか
俗人は自刃して自分のしたことを正義化しやうとしたり、
世間に悪く思われまいとしたり、或は懺悔と絶望の中から逃避したりしやうとする。
然しこれ等の心境は決して最上のものとは言ひ得ぬ。
即ち自己の行動を死に依って正義化しやうとする所に
未だ未だ真に正義を体得し切って居らぬ一面を見出し得る。
世間に悪く思われまいとする心情の中に俗世間に阿ねる所がある。
又懺悔と絶望を死に依って逃れやうとする心の中に透徹し切れぬ人間の弱さを曝露してゐる。
中佐殿はその行動を死に依って正義化せずとも、既に正義の十分を体得してゐた。
また俗世間に阿諛して自分のしたことを美化しやうとか
世間の人気を呼ばうとか言った風の俗臭粉々たる人物ではなかった。
尚又懺悔と絶望とを透過せられた正しい強い人であった。
そして非合法が悪いとか、合法がいいとか言ふやうな世間並の人物ではなくて、
常に合法と非合法の上に居て神様と共に居ての立場から正邪を裁いてゐた人である。
斯くの如き中佐殿に向って、「 相澤は何故切腹しなかったか 」
と言ふ世間の詰問に対して私は笑ひを禁じ得ぬものである。
二、相澤中佐は無思想であったか
禅の不立文字とは、文字にも口舌にも現はし得ぬ所の高い悟道の境地を言ふたものである。
一切の思想、一切の智慧を超越した所に悟道の真諦がある。
中佐殿は俗思想、俗智を超越して不立文字の理念を把握して居られた。
三、相澤中佐は脳を病んでゐたので大それたことをしたのか
「 相澤中佐は中耳炎を患って以来脳を冒されてゐた 」
と言ふ風評を耳にしたが、私はその然らざることを断言する。
中佐殿は止むに止まれぬ義憤から発したものである。
松陰の辞世の
かくすれば かくなるものと知りながら
止むに止まれぬ大和魂
と言ふ歌の真意を探ると、中佐殿の高い心境の一端を窺い知ることが出来る。
「 かくすればかくなる 」 と云ふ判断を下すのは頭脳のよさを示すものであって、
中佐殿が大事を決行するまでに智慧をしぼり、一切の手段を尽し乍ら、
如何に心志を用ひたかは知る人ぞ知るである。
一切の智慧をしぼり、手段をつくして最後には、
「 かくすればかくなる 」 と言ふ理窟めいた所から飛躍して一段高い心持に進んで、
「 かくすればかくなる 」 と言ふ事すら考へない心境、無我の境に入った。
そして唯 「 止むに止まれぬ 」 心持で 「 天に代って不義を討つ 」 心境にまで到達せられたのであらう。
かかる高い心境には脳を病んでゐる病人や俗智、小智、邪知の人は到底達し得ない。
唯大智の人、透澄清明なる頭脳の人のみが達し得る。
要するに中佐殿は俗人に理解する事の出来ない高い精神世界に居て、
革命的道念を体現した人である。
そして吾々にとっては軍隊の上官であったと共に維新運動の上官であった。
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