あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

雑録 『 腕力に訴ふるが如き暴擧は愼んでなすな 』

2022年02月18日 15時21分36秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

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相澤中佐の片影
(四)  雑録


  在福山市の一老人からの書信を載せる。
 因に 「 小生相澤氏とは未だ一面識無之、文通せしことも無之候得共、
書中の青年を通じ互に 『 宜しく言ふて呉れ 』 的の挨拶を交せし仲に有之 」
と追伸してある。

未見の知己、眞に相澤中佐を語るものと言ひ得やうか。

皇國の政治は 「 祭事 」 と心得申候 
「 親が子に臨むが如し 」 と解し居り候。
然るに大正以來の政治は
「 駈引 」 「 策略 」 を以て終始し居り候事は
小生體験を以て之を承知罷在候。
殊に昭和と成りては
政府は娼婦にも劣る白々しき詐欺虚言を吐いて
平然たるに至りては何とも申様も無之、
皇國として刺客の起るは當然の儀と存候。
相澤中佐殿が永田を誅されし理由を、陸軍省公然の發表として新聞に發表せられし処を讀むに、
曰く  「 謬まれる巷間の浮説を妄信し云々 」 と。
嗚呼
、吾相澤中佐は單に世間の噂を盲信して輕擧妄動するが如き
オツチヨコチヨイ、三文奴には無之候。
歩兵第四十一聯隊の將兵が心より語る処に聞け。
曰く
「 隊中の將兵は中佐を高山彦九郎と呼べり 」
「 隊中の將兵一人として中佐を惡く言ふものなく、皆其の謹嚴にして温厚なるに心服せり 」
「 中佐は不言實行の人なり 」
と。
而して小生が玆に輕擧妄動に非ざる證拠として特筆仕り度は、
中佐が永田を誅すべく上京さるゝ時、小生指導下にあり常に中佐に私淑しありし一青年
( 中學校を卒業し、目下青年團長を勤めをる ) が岡山まで同車せしが、
中佐は同青年に訓へて曰く、
「 此際青年として勤むべきは皇魂の宣布である。腕力に訴ふるが如き暴擧は慎んでなすな 」
と。
自己は今君側の奸を除かんとして行途にありつゝ
農村青年團長に向つては、團員に皇魂の扶植を訓論し、
青年の熟して爲す易き輕擧妄動を訓戒せらるる如きは、
之果して 「 巷間の浮説 」 に心を狂はすが如き者の爲す可き行爲に御座候や。
永田鐵山なる匹夫が自己の奸才を弄して皇國を蠧毒きくいむしどくしつつありし事は、
十目の視る処、十指の指す処に御座候。
殊に今回の人事に就き、鐵山が中心になつて大いに力をつくしたる事は新聞にすら載り居り候処、
然るに陸軍當局は自ら欺き 而して人を欺き 以て其の威信を保ち、
統制を圖らんと策せるも 是れ却つて陛下の皇軍を冒瀆し奉り、
世人より侮辱さるゝの基と成り、益々統制を亂す者に外ならず候。
長上の命令に服從するは啻ただに陸軍の規定たるのみならず實に人道に御座候。
然れども苟いやしくも皇國の御爲めに成らざる事を看過し自己一身保安の爲め荏苒日を送るは、
本當の---口頭だけでなく---日本精神を有する者の肯んぜざる処に候。
故に陸軍の幹部にして眞に統制を欲するものならば、權力を以て部下を威壓するの妄念を去り、
眞に部下軍人をして心服さすに足るの行を執らんことを敢て忠告致度候。
×  ×  ×
  中佐の一辱知じょくちの寄せた文
一、昭和七年頃私が中佐殿に初めてお會ひした時、いたく感動したことはその大自然的な風格であつた。
 言行の總てが自他を詐らざる、無理のない、極く自然なそして雄大なことであつた。
初對面の時笑ひ乍ら申された言志録の一章
「 身に老少ありて心老少なし、氣に老少ありて理に老少なし、能く老少なきの心を執つて
 以て老少なきの理を體すべし 」
は、其の後私の生活の基準になつた。

二、昭和九年二月頃中佐殿が中耳炎を病んで慶応病院に入院しておられた頃
 私は友人と二人で御見舞いに行つた。
私共が病室に入つて直感したことは病状の只ならぬことであつた。
患部を繃帯して寝台の上に呻吟して居られる姿は傷々しい限りであつた。
「 中佐殿如何で御座いますか 」 と申上げると、
中佐殿は苦痛を噛みしめて奥様を呼ばれ無理に寝台の上に起き、
「 ハイ、相澤の病気はいいです。Y君はいけない。部屋に入った時の敬礼がいけない。
 I 君は少しいい。然し君は礼儀を知らぬ。
上官の部屋に入つて外套もぬがぬ様な將校はいけないのだ 」
と、いきなり注意を受けた。
私共が冷寒をおぼえて恥入つて威儀を正すと、
「 それでいいそれでいい 」 と申されて満悦至極の態であつた。
その時中佐殿はこんなことも言はれた。
「 私は今は病気を治すことだけする。
 若い偉い人が居られるから御維新の事はその方々にたのむ 」 と。
私共がやがて病室を辭し去り、靖國神社に參拝の途次二人はつくづく中佐殿の偉さを語合つた。

三、中佐殿は退院して間もなく私の宅をお訪ね下さった。
 木綿絣かすりにセルの袴をつけ、日本手拭を腰にはさんだ例の通りの質素な服装で、
「 やあ I さん、入院中お見舞いの節は大變叱つたさうですネ、 ハツハツハー--- 」
と割れるやうな大聲で笑はれた。
雑談している中ヒヨイと私の落書した高杉晋作の詩
「 眞個浮世価三銭 」 の句を床の間に見つけて、いきなり剥ぎ取つて
「 これはいい これはいい これ下さい 」
と言ふなり懐にねぢ込んでトントンと階段を降り、
さよならと言葉を残して帰つて行かれた。
私は友人と中佐殿の人生観の奥深い所を交々語り合つたが遂ひに語り盡し得なかつた。

断片一束
一、中佐殿が慶応病院に入院されて居つたとき、士官候補生の○○が肺結核で入院していると聞き、
 非常に同情されて早速懇ろな手紙と共に 「 養生する様に 」 と申添へて二十円送つて呉れました。
  ( □□少尉談 )

二、大隊長が精神訓話され、言 皇室の御事に及ぶと涙を流して話されました。
  ( 一除隊兵談 )

三、或夜不寝番が下番になつたので私が床の中へもぐり込んだ所へ、
 夜中にも不拘寝室を巡つて来られた大隊長殿が尋ねられました。
「 寒くて眠らないのか、それとも風邪てもひいたのか 」
なんでも寒い冬の夜でした。
あの温容がまだはつきりと目の前に浮んで来ます。
  ( 一憲兵伍長談 )

四、中佐と共に留守隊にて勤務せし将校は異口同音に
 「 至誠の人 」 「 精神の人 」 と言つて居る。
小生も亦見習士官より任官迄御薫陶に与つたが
ツツツポの着物を着られた中佐の姿が目のあたり浮び、
殊に青年將校を可愛がつて呉れた思ひ出に感慨無量なるものがある。
  ( ××中尉談 )

五、昭和七年三月二十日。
 歩兵第三聯隊第十一中隊將校室に、大蔵、朝山、村中、佐藤、安藤の各陸軍中尉、
中村海軍中尉、坂元士官候補生が會合し、
中村海軍中尉は直接行動の必要を鞏調力説せり。
偶々相澤中佐來室され、事情を聞くや、「 神武不殺 」 を説き、
又 「 日本の國は血を流さずして奇麗に立て直る國である 」 と説き、
「 若しやる必要があるならば若いものにはやらさぬ、私がやる 」
と斷言したり。
此の爲め海軍側の提議は容れられず、
遂に陸軍將校の參加なくして五 ・一五事件は決行せられたり。
  ( △△大尉談 )

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