あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

中佐の片影・其八 『 正に相澤殿の一擧一道は菩薩業と確信罷在る 』

2022年03月10日 18時17分01秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

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相澤中佐の片影
( 二 )  中佐の片影
其八  某氏  ( 中佐の親友 )


一、相澤中佐は聯隊から僧坊起臥きがを不可とせられたので、
 無外和尚の法友、当時の東北帝国大學總長北条時敬氏宅に寄寓することになつた。
( 北条氏は後學習院長に任じ千年物故された )
當時北条氏宅に黒川恵寛氏が家庭教師として寄寓しつつ東北帝大に通つて居たが、
同氏が肺を患ふや二人で自炊生活を始め、喀血しても同じ部屋で寝起し、食事を共にしていた。
同氏が帰郷の已むなきに至るや身廻り一切の世話をして無事歸郷させた。
黒川氏は現に京都市吉田に医師を開業して居られ中佐とはずつと親交があつた。
中佐は収容後、無外老師の健康勝れざるを知つて黒川氏に頼んで薬を届けさせた。
中佐夫人宛同氏最近の書翰の一節に曰く、
「 輪王寺老師の御儀拝承いたし候、本日早速仙台宛護送薬致置候
 御了意被下度候、大兄ま御心境御美しく候、今は唯心靜かに悟道御精進願はしく、
為皇國切に御自愛被下度 」

二、少中尉時代から部下を可愛がること非常なものであつた。
 職務以外は概ね粗末な綿服に小倉袴の朴々たるいでたちでよく旧部下の家庭を訪問した。
中尉時代台湾赴任の途次、福島県石城海岸に旧部下を訪れ、偶々大漁祝ひがあり、
大漁祝ひの印半纏 はんてんと鰹節をもらつて来たことがあつたが
半纏は今でも大事な記念としてしまつてある。

三、朝鮮新義州守備隊附の少尉時代、中佐の當番兵であつた猪狩定与氏が
 自作の 「 麦こがし 」 と酒とを収容中の中佐に差上げやうと思ひ上京して來て、
浅草の某交番の巡査に差入れの方法を尋ねたところ、
中佐を表する巡査の言が余りにも無礼であるのに
同氏は沸然怒をなして方に殴り付けやうとまで思つたが、
此際却つて中佐に惡影響を及ぼすかも知れぬと
思ひ止まつて旧番地を思ひ出して鷺の宮の留守宅に訪ねた。
數々の思ひ出話しにその夜を留守宅に語り明かし歸郷したが、
歸郷後自作の白米一俵と馬鈴薯などを送つて留守宅を慰めた。
猪狩氏の話の一節に次の様な思ひ出がある。
「 中佐の部下の兵が肺肝で在隊中死亡したが、
 その時中佐は死に至るまで肉身の弟か子供を看病するが如く附添つて、
湯灌ゆかんや輕帷子を着せるまで、一切手づから行ひ、河原で火葬した時も自分で火を點け、
骨から灰まで自分でさらつて郷里に送り届けた。 兵戰友、友達一同感激せざるものがなかつた。」

四、尚猪狩氏の書信に次の様に述べている。
 前略、小生相澤殿とは朝鮮新義州守備隊に於て種々御懇篤なる御教鞭を賜はり、
其の後も屢々御訓戒を戴き常に生神として敬恭致候、
今回図らずも駭報に接し只々恐懼に堪へ申さず候
相澤殿御風格たるや、小生申上ぐる迄もなく、
神聖至純誠神の如きに平素心の守として崇拝致し居り、

正に相澤殿の一挙一道は菩薩業と確信罷在る処に御座候、
御窮窟なる公判に當り及ばず乍ら御高恩の萬分の一に酬ひ度く神に念じ居り候、 ( 下略 )

五、事件が新聞に報道せられて、相澤中佐の決行と判明した日、
 福山市在住石川某が留守宅に訪ねて來て、夫人に向つて、
「 此の聯隊では相澤さんこそ軍人らしいお方と思つて居ましたが、
 矢張り私の考へは間違ひませんでした。
正月でしたか私が酒に酔つて往來で中佐に無礼を働きかけましたら、
ヂロリと見てにつこり笑つて黙つて行き過ぎられましたが、あの眼光は今でも忘れることが出來ません。
今度のこともあの眼光が然らしめたものに違ひないと思ひます。
私はやくざ見たいなものですが何んなりと御世話申上げさせて頂きたうございます。」

次頁 中佐の片影・其九に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


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