相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其六 佐藤光永 氏 ( 大日本赤子會理事、中佐の竹馬の友 )
相澤君の少年時代は温順な思慮深い性質でした。
御宅は役場の前辺りにありましたが、
御家庭は嚴格な様子で歸宅すればいつも両親に丁寧に挨拶されい居りました。
御両親には好く仕へられ、御姉弟仲も睦じかつた様です。
學校の成績もずつとよい方でした。
たしか四年生か五年生の頃でしたらう。
鎮守の八幡様の裏山に坂上田村麿を祀つた祠がありますが
その奥は何かお姫様の崇があるとか言ふ傳説で人の立入を禁ぜられて居りました。
そこへ私共三四人が入つて見やうとしました時、相澤君は皆を引き留めて
「 昔からしてはならぬと禁ぜられていることを犯しては、惡いことはあつても善いことがある筈はない 」
と言ふ意味のことを言つたことがありました。
子供の當時から既に思慮深かつたことが今でも想ひ出されます。
その相澤君が今度のやうなことを決行したのは、よくよくの事情があつたに違ひありません。
その事情の善し惡しは知らず、唯 君國の爲めと言ふ一念が根本であつたことだけは毛頭疑ひません。
近頃は自分の立身出世の爲め、自分の立場をよくする爲めならばどんなことでもする。
人を陥れても構はぬと言ふ一般の世相でそれが殊に上のものに多い。
軍人の中に於てさへ私共が顔を背けさせられる様な人々の多い時に、
自己の一切を賭して大事を決行されたと言ふことは なんとも敬服に堪へず、
誠に有難いことに感ぜられます。
私も八年この方大日本赤子會の運動に一切を捧げて來ましたが、
その間に不愉快なこと、憤慨に堪へないことが尠くなかつただけ一層痛切に相澤君の心境に感ぜられます。
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