あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

反亂に非ず、叛亂罪に非ず 『 大命に抗したる逆賊に非ず 』

2020年10月04日 08時12分59秒 | 暗黑裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

宮内省發表
位の返上を命ず (各通)  ( 二月二十九日 )
返上の理由
大命に抗し 陸軍將校たるの本分に背き
陸軍將校分限第三條第二号該當者と認め
目下免官上奏中のものとす。

二・二六は叛乱か
わたしは、さきに陸軍当局が、
彼らを大命に従わなかったとして大命に抗した叛徒と断定したことは、
はなはだし 不当だとかいた。
ここで、この点を明らかにしたい。

三月一日 陸軍省は
陸普第九八〇号により、陸軍次官古莊幹朗 名で、
「今次ノ不法出動部隊 ( 者 ) ヲ叛乱軍 ( 者 ) ト称スルコトトス 」
と 通達した。
これによって、
蹶起部隊は叛乱軍と呼びその参加者は叛乱者と呼ばれることになった。
爾来 叛乱部隊、叛乱罪 等々、彼らの蹶起が叛乱という言葉で統一されてしまった。
だが、
彼らは叛乱の徒であったか。
すでにみてきたように、
彼らはひとたび大命が下ればこれに従うことを信念としていた。
彼らの国体観、忠誠心に発するものであった。
ただ首謀者の一部 例えば磯部、栗原などは、
この大命が真の天皇の意思に出でずして、奸臣の輔翼に出づるものならば、
この大命輔翼者に向ってなお鉄槌を加えねばならぬとしていたにすぎない。

とにかく、事の経過をたどれば、
二十八日午前
山下奉文少将より奉勅命令の下達近きにあり、
お前たちはどうするかと聞かれ、
一同協議の上
「 天皇陛下の命令にしたがう 」
と 自決をちかった彼らであったが、
その後まもなく徹底抗戦に出て幸楽を中心に攻囲軍に対決しようとした。
この事態逆転のきっかけは、
磯部の自決について懐疑、攻囲軍の動きに対する激発、
それに北一輝の
「 奉勅命令はおどかしだろう、さいごまで頑張るべきだ 」
 との激励などが原因で、
彼らは 陸相官邸をすてて攻囲軍と対峙していた 「幸楽」 に集結してしまったのだ。
これがさきの戒厳司令部発表にあった
「 一時聴従したがたちまち前言をひるがえし 」
云々の事の内容なのである。
だが、徹底抗戦の決意に一夜をあかした彼らも、
払暁からの放送などから、
奉勅命令の下達も、もはや明らかであることを知り
続々と兵を徹して帰順したのだ。
だが、二十八日正午以来抗戦を決意し警備線上に討死しようとしたことが、
奉勅命令に抗したとて叛徒にされてしまったのである。
が、事実、
奉勅命令が下達されていない限り 彼らを大命に抗したというわけにはいかない。
しかるに、事件が鎮定してから彼らは叛乱軍とされた。
もともとこの不法出動部隊は、
はじめ行動部隊、
あるいは維新部隊といわれ
ついで統帥系統に入って南部麹町警備隊と公称されたが、
間もなく騒櫌部隊といわれ、
そして最後のドタン場になって叛徒呼ばわりの叛乱部隊とされたのである。
だが、この叛乱軍とされたことは、同時に彼らが叛乱罪に問われたこととされている。
磯部は「叛乱罪」について、こう書きのこしている。
「 吾人は叛乱をしたのではない、
蹶起の初めからおわりまで義軍であったのに、
叛乱罪に問われる理由はない。
義軍であることは告示において認め、
戒厳軍に入れられた事によって明らかになり、
警備を命ぜられたことによって、いよいよ明白でないかと、私は強弁しました。
ところが法務官の奴らは、君らのシタ事は大臣告示以前において叛乱である、というのです。
これは面白いではありませんか、私は次のように言って笑ってやりました。
さようですか、これはますますおもしろい。
大臣告示が下達される以前において国賊叛徒であるということが、
それ程明瞭であるのに、なぜ、告示を示し警備命令を与えたのです。
国賊を皇軍の中へ勝手に入れたのは誰ですか、大臣ですか、参謀総長ですか、戒厳司令官ですか。
国賊を皇軍の中に陛下をだまして編入した奴は、明らかに統帥権の干犯者ではないかと。
そしたら法務官の奴は、
何しろ中央部の腹がきまらんからね、君、といって、ウヤムヤに退却しました。
ところが、裁判長の奴、
私がチチブの宮様の事を言うたことにカコツケテ言葉がすぎるといって叱りつけるのです。
奴ら道理においてはグウの音も出ないものですから、権力をカサにきて無理を通すのです」
 (「 獄中日記 」)
強気な磯部の論弁であるが、ここでわたしの注意をひくことは
法務官が君らは大臣告示が出る前において叛乱だといったことである。
事件鎮定後の第六十九議会において、
寺内陸相は一議員の"何日から叛乱部隊であるのか"との質問に対して、
「 彼らが営門を出た時から叛乱である 」 と 答えている。
これからすれば彼らが不法に出動して
重臣を倒し中央要域を占領したことが叛乱行動であったわけであるが、
しかしそれは反乱であって叛乱ではなかった。
当時の陸軍刑法は反乱罪を規定して、
「 党ヲ結ビ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者 」 ( 陸法第二十五条 ) とあった。
つまり法律的には明らかに反乱であった。
現にこの事件は陸軍刑法第二十五条反乱の罪をもって処罰している。
この反乱行為をしたものに、わざわざ叛乱軍の名を与えたのはなぜか。
彼らが奉勅命令に従わなかったとし、
それは天皇に反逆する行為と規定して、
叛乱軍と名づけたものと解するよりほかはない。
だが、
事の実際はすでにみたように彼らを大命に抗した叛乱者としたことは、
いちじるしい不当なことであった。
事実、この命令は伝達されていなかったし、
また、彼らには大命に反抗する意思はいささかもなかったからである。
林八郎のかきのこしているように 「 一同下達されるまでやる覚悟 」 であり、
したがって、
二十九日早暁
その下達をラジオやビラでこれを確認して、
さっさと兵を返しているのである。
その上、
彼らを審理した軍法会議も
奉勅命令が彼らに正式に下達されたことは認めていないのだ。

彼らの部隊長となった小藤大佐は、
この命令を懐中ふかくおさめて下達しなかったのである。
下達のない命令には反抗するすべもないはずである。
断言する、
軍が大命に抗したとして叛徒の名を与えたことはいちじるしい不当であった。
叛乱は反乱であった。
彼らには寸毫も大命に抗するの意思はなかったことを大書しておきたい。

抗命の罪
ここでもう一つ書いておくことがある。
いささか理屈っぽくなるが。
それは、この場合の奉勅命令、
「 戒厳司令官ハ 三宅坂附近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ 速ヤカニ現姿勢ヲ撤シテ
各所属部隊長ノ隷下ニ復帰セシムベシ
奉勅    参謀総長載仁親王 」
にしたがわなかったとて、これを違勅、反逆の徒といいうるかということである。
いったい、勅命を仰いで彼らを撤退させようとは、
この事件当初に陸軍大臣の頭の中にあったことだった。
強烈なる不撤退の決意を知った大臣が、
この奥の手を用いなければ治安の回復は不可能に近いと思ったことであろう。
だが、軍隊において部下が反乱をおこした場合、
その上官はただちに鎮圧の処置をとることは、その職責上当然のことである。
何も奉勅命令を仰がなくとも
中隊長も大隊長もまた聯隊長も師団長もこれを鎮定すべき責任があった。
当時、陸軍が奉勅命令を仰いで鎮圧に出たことについてある在郷将官は、
「 軍がなにゆえに奉勅命令を仰いだか、
事件が勃発せばまず大隊長は鎮撫のため身を挺して現場にのぞみ、
肯ぜざるときは中隊長を斬るか、斬られるかの二つしかない。
大隊長倒れたら聯隊長出でよ。
聯隊長職に殉じ、しかしてのち奉勅命令を奏請すべきだ 」
といい、各級指揮官の叛徒鎮定の責任を説いていたが、
これが、そもそも軍統帥の常道であった。
だが、
流血の惨事を避けて事を鎮めようとしたことから、蹶起将校らの説得によって撤退させようとした。
しかしそのことは必ずしも不可というのではなかった。
しかし、事実、行われた説得鎮定の処置は、
ことごとく彼らの成功を信じさせるものばかりで、結果は全く逆のかたちとなってしまった。
こうした情勢の中で武力鎮圧を決意した最後の切札を仰々しく押し出したものが、奉勅命令だったのである。
なにも奉勅命令といわなくとも、軍統帥の命令はいつでも天皇の命令であったのだ。
一中隊長が部下に下す命令にしても、統帥大権の承行によって行う命令であるから、
その命令の根源は天皇にあった。
だからこの場合
奉勅命令は戒厳司令官に下されたもので
反乱に出た将校以下に下ったものではないのだ。
統帥の系統にしたがい
戒厳司令官はこれに基づいて近衛、第一師団長に命令を下す。
師団長はさらに具体的に師団命令を下す。
だからこの場合彼らは、小藤部隊として軍隊区分に入っていたのだから、
その撤退すべき命令は小藤部隊長から下達さるべきであった。
したがって
彼らは小藤大佐の命令のみで動くべきもので、
そのさきさきの命令源がどうなっているか知る必要もないことであった。
つまり彼らは
小藤部隊の命令こそ天皇の命令につながるとしてこれに服従すべきであった。
したがって、
兵を引けという小藤部隊長命令 ( 統帥命令 )  に もし従わなかったとしても、
それは抗命罪であって、大命に抗した大逆の罪などというべきではない。
現に抗命罪はあっても、奉勅命令に抗したという大逆罪はない。
要するに大命とは統帥命令であり、
もし撤退せよとの統帥命令にしたがわねば、
ただ、抗命罪が成立するだけである。
これをして大逆罪などというは、全くいいがかりであるというのほかはない。

このようないいがかりで、彼らをあるいはその遺族たちまでも、
長い間、唇かしめたことはたいへん酷なことであった。
( 昭和二十一年一月三日大赦令により大赦 )
しかし、また、この奉勅命令が形式的には、
参謀総長の上奏によって天皇の允裁を仰いだものであっても、
その事の内容においては当時の天皇の直々の意思であったことには間違いはない。
この大御心にそむいたというから、
大命にしたがわなかったというのであれば、
彼らもその撤退を頑強に拒否したのであるから、ある程度のみこめないではない。
しかしその大御心を二十六日朝来拝承していた軍首脳者たちが、
全く天皇の意思に反する 「 大臣告示 」 をつくって、彼らを激励したその不逞こそ、
道義的責任において、
反乱青年将校に十数倍する不逞反逆行為といわざるをえないであろう。
敗れて獄中に悲憤の情にえたぎりたっていた彼らこそ悲劇の主人公であった。
「 当時、大命ニ抗セリトノ理由ノモトニ 即時吾人ヲ免官トナシテ逆徒トヨベルハ、
勅命ニ抗セザルコト明瞭ナル 今日ニ於テ如何ニスルノカ 」 ( 安藤輝三遺書 )

待命に抗することのいささかなかった青年将校の心情をかいて 一応のことの真実を明らかにした。
事件の悲劇は、
天皇への彼らの忠誠が、革命する心にある限界を与えたことであった。
彼らは維新革命へと勢いこんで立ち上がったが、
その心情の底には革命遂行への限界があったのだ。
このことからいえば、
この一挙の失敗は、彼らの信条とした天皇絶対への忠誠心 
それ自身にあったともいえよう。
忠誠心をいだいて 刑死を甘んじなければならなかった所以であろう。

大谷敬二郎 二・二六事件 から


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