あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

中佐の片影・其十六 『 馬鹿ツ、それでも見習士官か !! 』

2022年03月02日 12時31分42秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

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相澤中佐の片影
( 二 )  中佐の片影
其十六  □□中尉


昭和七年夏、遊泳演習の一日のこと。
夏ではあるが北國の海は泳げる天気は少ない。
だが演習は規定通り實施して居る。
二、三日前から余り天氣もよくないし、教官以下嫌々乍ら。
丁度其の日は小雨でも降りそうな肌寒い日和、海岸には僅かに子供が戯れているだけだつた。
監督たる大隊長相澤少佐も毎日水に浸つて居られた。
教官たる見習士官は専習員を集めて準備はして居たが内心取止めを希つていた。
と 乗馬で來られた大隊長は、
「 準備は出來たか 」
と言ふなり素ツ裸になつてジャブジャフ゛と海に入つて行かれる。
見習士官は恥しい気持だつた。
終ると
「 俺の馬を持つて帰れ 」
窺ひ知れぬ奥底の一部が映つて思はず涙が出た。
擲弾筒、手榴弾の査閲の或る日。
補助官は兵を一列に並べて手榴弾を投げ突撃を實施して一通り終ると大隊長は突然、
「 斜左の方向に突撃 」
事の不意に驚いて、照れかくしに反問すると、
「 馬鹿ツ、それでも見習士官か !! 」 
成程、と思つたのは余程後のことだつた。
×    ×
私的に極めて温情に溢れ親切叮嚀だつた。
私的訪問の時などこれが教練時の大隊長かと思はれる程だつた。
そして
「 君達は幸福だ。いい聯隊にきて幸福だよ 」
と、よく言はれた。
「 こんな聯隊に居ると時代におくれる 」
と、某將軍から言はれたのと對稱して人物の偉さは階級や地位ぢやないことを痛感した。
×  ×
あの人を射すくめるやうな威嚴のある眼の奥底には
言ひ知れぬ慈愛の涙のあつたことを思ひ出さずには居られない。
年が廻つて三年經つて會つた。
当時の事など語つて実に朗らかだつた。そして、
「 子供等が嬉々として手をつないで遊んで居るのを見ると自分は涙が出る 」 と。
ああ、吾人も何らの粉飾もない乳のみ子のやうな純な氣持ちになり度いものである。
嚴父の誠と慈母の情け。率先垂範。
而して子供の無心に戯むれるに涙ぐむ中佐の心。
ああ軍人とは斯くの如きを言ひ、神の心とはこの心を言ふのであらうか。

次頁 中佐の片影・其十七  に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


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