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非国民通信

ノーモア・コイズミ

萎える邦題

2014-10-16 23:00:46 | 文芸欄

 自分は文学が専攻でして、ただまぁ文学の研究者というものは大学でも文学を教えるより語学を教える役割の方が期待されているところもあるのが悲しい実情と言いますか、語学が苦手な私は色々と限界を感じたりもしたものです。外国語での会話に比べれば読む方はずっとマシではあったのですけれど、それでもまぁ各種の翻訳には色々お世話になりました。そんなわけで諸々の海外作品の邦訳には古いものから新しいものまで少なからず接する機会があったのですが、訳された時代によって一種の流行もまたあったように思います。

 現代は、言うなれば「誤訳派」みたいなのが喧しいと言いますか、ちょっとでも原文に忠実でない訳があると誤訳だの何だのと突っかかっている人も見受けられるところで、あまり大胆な翻訳は見られなくなっている印象がないでもありません。まぁ先駆者の翻訳と、先人の訳を参考にしながら校正していくように訳を作っていった翻訳とでは精度に差も出てくるものなのでしょう。時には反対に、最初期の訳者が作り上げたイメージを覆そうと変な訳文をひねり出しているケースもありますが、そういう突き抜けている類は意外に非難されていない気もします。先駆者による工夫された訳と、そこから反動で出てきたようなひねくれた翻訳とでは、また別ではあるのですけれど。

 一方で「タイトル」に関しては、ひねりのない退屈な代物が主流になりましたね。この辺は文学に限らず、映画でも音楽でもゲームでも同様ですが、最大多数派は原題をカタカナ書きにしただけ、というパターン。これは実に、つまらないです。昔の翻訳者はただ単にタイトルを日本語に置き換えるだけではなく、なんとかして作品が纏っている空気のごときものを伝えようと、成功しているかどうかは別として色々と頭を使っていたように見受けられる一方で、現代の邦題は実につまらない、その日本版のタイトルを聞かされるだけで中身を見る前に萎えてしまうような類が目立ちます。

 『ライ麦畑でつかまえて』が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に変わってしまっては失笑ものですし、『ゴリオ爺さん』が『ペール・ゴリオ』になってしまうのも何だかマヌケにしか感じないのですけれど、それが時代の流れなのでしょう。過去の訳者が使った邦題をそのまま拝借するのも工夫の無い話かも知れませんが、単に「カタカナにしてみる」ってのは、それは翻訳ではないという気がしますね。冠詞を適当に省いているという点で、原文に忠実というものですらありませんし("You've Got Mail"が『ユー・ガット・メール』なんてのもありました、"And Yet It Moves"という、ちょっと面白いゲームもあるのですが、邦題は『アンド イエット イット ムービース』……)。

 『ああ無情』は『レ・ミゼラブル』になり、『華麗なるギャツビー』は『グレート・ギャツビー』に、『指輪物語』は『ロード・オブ・ザ・リング』になりました。『博士の異常な愛情』も、たぶんリメイクされたら邦題は『ドクター・ストレンジラブ』になるんでしょうね、きっと。そして『ジャングル大帝』は『ライオン・キング』、『殺せ、ロシア人だ』は『リメンバー・ノー・ロシアン』になってしまうわけです。やだやだ。

 まぁ『アナと雪の女王』は『フローズン』にされなくて良かったね、と思います。内容は知りませんが邦題は悪くないでしょう。ちなみに『アナ雪』と同様に随分と熱心に宣伝されていた映画としては『ファインディング・ニモ』なんかを思い出します。当時は館内に映画館も入っていた商業施設のテナントで働いていたものですから、『ファインディング・ニモ』を見に来た親子連れの姿もよく見かけたものです。どこの子も皆、「ファイティング・ニモ」と言っていました。原題をそのままカタカナ書きにするという王道の邦題ではありましたが、子供達には難しかったようです。

 ちなみに私が知る内で至高の邦題は『超 男 性』ですかね。原題は"Le Surmâle"で、この邦題が『超 男 性』です。訳者は誰かと見返したら、澁澤龍彦でした。元のタイトル自体が優れたものではあるとはいえ、流石です。この邦題でなければ手に取ることはなかったと思うところ、タイトルを作るのは簡単なことではありませんが、それだけにセンスが問われる部分でもあります。

 

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説得力に乏しい

2014-09-09 23:20:22 | 文芸欄

電子書籍より紙の本で読んだほうが、内容をよく記憶できる:研究結果(ライフハッカー[日本版])

Inc.:デジタル化の流れは、森林にとっては良いことでしょう。しかし、記憶にとっては悪いことのようです。最近の研究によると、電子書籍で本を読んだ人は、紙の本で読んだ人に比べて、内容を記憶している度合いが著しく低いことがわかりました。

ノルウェイのスタヴァンゲル大学の研究者、アン・マンゲン(Anne Mangen)氏の新しい研究では、50人の被験者に28ページの短編小説を読んでもらい、後から重要なシーンをどれくらい思いだせるかをテストしました。このとき、被験者の半分はKindleで、残りの半分はペーパーバックで読んでもらいました。

登場人物や設定を思い出すことに関しては、どちらのグループも同程度の成績だったと、ガーディアン紙が報告しています。ところが、物語のプロットを再構築するよう頼んだところ、大きな違いが見られました。電子書籍で読んだ人は、14のストーリーイベントを正しい順番に並べるテストにおいて、著しく悪い成績を示しました。

マンゲン氏は、先月イタリアで開かれたカンファレンスにおいて、研究発表を行い、この結果についての推論を話しています。

「物語の進行に合わせて紙をめくっていくという作業が、一種の感覚的な補助となります。すなわち、触覚が、視覚をサポートするのです」とマンゲン氏。「おそらくこのことが、読書の進捗度合いと、物語の進行度合いを、よりはっきりと印象付けるのでしょう」

 

 ……という研究発表をした人がいたそうですが、信憑性はどれほどのものなのでしょうね。曰く「物語の進行に合わせて紙をめくっていくという作業が、一種の感覚的な補助となります。すなわち、触覚が、視覚をサポートするのです」とのこと。むしろ私なんかは、そういう理由付けを聞くと逆に疑わしく思えてしまうのですけれど、読者の皆様は納得されるでしょうか? 電子書籍端末でも紙の本とは違うにせよ「ページをめくる」という動作は存在します。電子書籍でも進行に合わせて指先を動かさなければならないわけで、それもまた「一種の感覚的な補助」には違いないはずです。

 どちらかと言えば、電子書籍の場合は「自分の読んでいる位置が分かりにくい」ことが問題になるような気がします。紙の本の場合、読み終えたページと未読のページの厚みで、自分が読んでいるのが後半部なのか前半部なのか、大まかな地理を把握しているものですが、電子書籍だとその辺が微妙です。故に、物語の進捗と実際に読んでいる章の関連づけが甘くなる等々。もっとも「読み終えるまで○○分」とか「全体の○○%」とか、そういうガイドラインを読者が意識していれば話は別になりますけれど。

 より大きいのは、電子書籍は紙の本のようにはつまみ食いできない、ということですかね。紙の本ならパラパラと簡単に好きなページをめくることができる一方、電子書籍ではその辺が難しいように思います。画面下のスライダーをいじれば「飛ぶ」ことは可能ですが、なかなか紙の本と違って狙い通りのページを探すことができないと感じる人が多いのではないでしょうか。紙の本ならば、ちょっとページをさかのぼって前章のエピソードを確認するのは簡単です。そしてページに指を挟んで、別のページを読み返しながら次の章を読み進めていけば、話の繋がりを把握するのは容易になるものです。しかし電子書籍の場合は、この辺が上手く行かない、ひたすら1ページずつ読み進めていくことになってしまいがち、それがストーリーイベントの順序を正しく記憶できない結果にも繋がっているのかも知れません。

 もっともこの辺は、電子書籍端末(というよりソフトウェア)の操作性の向上で将来的にはカバーできそうにも思えます。もう少し直感的に、ページをまとめてめくる、章をさかのぼるような操作が可能になれば、紙の本との差異は減るのではないでしょうか。あるいは、電子書籍ならではの付加価値が付け加わることで逆に紙の本に対する優位が生まれてくる可能性だってあります。今でもkindle端末なら辞書機能との連動なんかがありまして、重たい辞書など持ち運べないような環境でも簡単に作中の不明な語句を調べることができたりと、紙の本にはない利便性がないでもありませんし。

 まぁ私の場合、電子書籍の利用は専ら収蔵スペースの問題が大きいと言いますか、紙の本を買っても置き場所がない、そもそも本棚を増設するスペースがない、本や本棚を買う金はあっても無理なく本棚を増設できるだけの広い部屋に移り住む金はない、本を買えば買うほど汚部屋化に拍車がかかるとあって、この頃は電子書籍化されているものは電子書籍で済ませるようにしています。そもそも日本の国会図書館でも収蔵スペースの問題は深刻、出版不況なのに出版点数は増えるばかりで建物を増設してもすぐに追いつかなくなる有様です。電子化はまぁ、好むと好まざるとに関わらず不可避なのでしょう。

 ちなみにヨタ話になりますが、ソ連時代の書籍には時々「途中で紙が変わっている」ものがありました。本の半ばまでには普通の白い紙が使われているのに、何故か途中から――章の分かれ目でも何でもないところから――茶色っぽく質の悪い紙に変わっていたりしたものです。他の国でも似たようなことはあるのでしょうか。もしかすると社会主義リアリズムの思想の元では「印刷されている中身が重要なのであって、紙の質などどうでも良い」ということだったのかも知れません。紙の書籍を好む人の中には実物としての本の質感を称揚する人も多いですけれど、ソヴェト体制下では生きられませんね。

 

さらに、プリンストン大学の今年はじめの研究で、手書きでノートをとった人は、キーボードでノートをとった人に比べて、長期的によく記憶していることがわかりました。マンゲン氏らはこれから、デジタル化が認知機能にもたらす影響を調べ、効果的な学習方法を探る予定だそうです。

この研究が進むまで、社員に重要な情報を知らせるときは、メールするだけでなく、紙に印刷して渡すほうがよいかもしれませんね。

 

 なお引用元の後半部ではこんな調査結果も伝えられています。この辺も、手書きかキーボード入力で認知機能がどうこうという感じではないような気がします。単純にキーボード入力でノートを取るのは難しい(ついでにタッチパネル端まるでは文字を入力するのが絶望的)、どうしてもレイアウトの自由な手書きの方が講義の内容をまとめるのに集中できるだけではないでしょうか。ただ口述されたことを順番通りに文字化するだけならいざ知らず、一般的な板書の内容をまとめるには、どうしても右へ左へ上へ下へと書き込む場所を動かさなければならない、この辺はよほど画期的なソフトウェアが開発されない限りは「手書きの方が楽」なのだと思います。順路通りに読み進めれば済む本と違って、ノート作りは紙を使った方が授業に集中できるのでしょう。

 どこも流行には迎合したがるもので、学校の授業にタブレット端末を無理矢理使おうとしたり、職場でも老朽化したPCのリプレースを放棄してiPadを配ったりすることは珍しくありません。ただまぁ「並べて見比べる」ということが、この種の端末では難しいですよね。解像度の数値ばかりが無意味に増大して、それをありがたがる向きも多いですけれど、画面が小さいままではあまり意味がありません。間違い探しも絵が隣り合っているのと、ページをめくりながら見比べなければならないのとでは難易度が全く異なります。タブレット端末を一人で何台も併用すれば紙にも負けない運用は可能かも知れませんが、それは流石に馬鹿げた話ですし。

 

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文化と権威

2014-08-07 22:55:13 | 文芸欄

 かのパブロ・ピカソは晩年に「やっと子どもらしい絵が描けるようになった」と言い残したそうです。もっとも現実の子供にピカソの晩年の絵と若い頃の絵を見せたら、99%くらいの子供は若い頃の絵の方を支持するのではないかと思います。下手をすれば、その辺の美大のちょっと上手い人の絵とピカソの晩年の傑作を見比べさせても、やっぱり前者の方が子供は良い絵だと考えるものなのではないでしょうか。逆に「訓練された大人」こそがピカソの後期の作品を褒め称えるわけです。でもピカソの作だという部分を伏せたら、結局はどうなるのでしょうね。

 まぁ、いわゆる芸術作品に限らず修練を積み重ねて初めて真価を理解できるようになる、そういうものも多々あります。スポーツでもゲームでも研究活動でも、ある程度上達してこそ楽しめるものがあるわけで、現代美術の類の中にはそこに該当するものもあるのでしょう。一方で作者の名声をありがたがっているだけ、傍目には何だかよく分からないけれども権威ある芸術家の作品を賞賛することで「素人には理解できないものの価値が分かる自分」を演出している人もまたいるように思います。ついでに、そういう人との共犯関係を作ることでのし上がるタイプの「芸術家」もまたいるような……

 最近の学生(若者)は本を読まなくなったと、長年にわたって言われ続けています。統計上はそういうものなのかも知れませんが、そもそも現代に比べれば読書量が多かった時代の元・若者も年を取るにつれて本を読まなくなるもの、本を読まなくなることに老若男女の別はないようにも見えます。そして社会の「ニーズ」ですね。日本で社会的地位や職を得る上で読書量は果たして必要とされているのでしょうか。人事権を持つ側が求めているのは、もっと別のものであるように思えます。視力が5.0あればサバンナで狩猟生活を営む上では大いに役立ちそうですが、都市生活においては無用の長物です。それと同じことが日本における読書には当てはまるような気がします。

 それでも、本を読む側の人には結構、偉そうな人が多いなと感じるわけです。これ見よがしに学生の読書量の低下を嘆息してみせる人は数知れません。曰く「本を読む以外では育たないものがある」云々。一見するともっともな発言に見えるでしょうか、しかし「本」を別のものに置き換えても成り立つ言い回しであるようにも思います。例えば「海外に留学すること以外では育たないものがある」とか「体育会系の部活動以外では育たないものがある」「集団生活を送らせること以外では育たないものがある」等々。

 例えば私などはゲーム好きですので、「ゲームをする以外では育たないものがある」とも主張したいところです。実際、間違いではないと思います。ゲーム以外では体験できないこともまた少なくない、そこでしか得られないものもまたあるはずです。そうは言っても「この頃の若者はゲームをやらない、けしからん」と若者のゲーム離れを上から目線で嘆いて見せたとしたら、たぶん世間の共感は得られないのではないでしょうか。あるいはパソコンでもそうですかね、「今時の若者はスマホ専門でマトモにPCが使えない、若者のPC離れは嘆かわしい」と肩をすくめても、やはり賛同者は少ないと思います。

 こうしてみると、なんだかんだ言って読書は今なお一定の「権威」であり続けているんだろうなと感じるわけです。読書が「他の何か」に比べて排他的に優れた経験であるとも私は思いませんが、しかし読書を「しない」人の存在を大仰に嘆く人は結構いるもので、これはよりマイナーで権威に欠ける趣味では望めないことです。まぁ若者の本離れを批判する新聞社が読書家の若者を優先的に採用しているかは大いに怪しいところですが、それでも「もっと本が読まれるべきだ」という前提意識は思いのほか強いのかも知れません。

 しかし、そういう読書の位置づけってのもどうなんだろうなと。果たして本当に本が好きで読んでいるのかどうか。実際のところ権威を身につけるために読書をしているだけ、「私はこれだけ本を読んでいます」というアピールに熱心なばかりの人も見受けられます。そうして、「本を多く読んでいる自分」を無自覚に「本を読まない人」よりも上に位置づけている感じの人もいるのではないでしょうか。本が好きで読んでいる人には好感が持てますけれど、自らの権威付けのために本を持ち出している感じの人は、率直に言って嫌ですね。

 

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大人の童話 : 「シュレッダー」

2013-09-20 23:41:23 | 文芸欄

むかしむかし――と言ってもそんなに前の話でも無いのですが――あるところに、おじさんとおばさんがいました。
おじさんは書類の山にしばかれに、おばさんはシュレッダーの周りにたむろしているオトモダチのところへ命の洗濯に行きました。

おばさんが井戸端会議のついでに書類をシュレッダーにかけていると、インジケータが赤に点灯してシュレッダーが止まりました。
おばさんはシュレッダーの扉を開け、中にたまった細断くずを一生懸命、押し込みました。

おばさんが再びシュレッダーに書類を流し込んでいると、またもやインジケータが赤に点灯してシュレッダーが止まりました。
おばさんはシュレッダーの扉を開け、中にたまった細断くずを一生懸命、押し込みました。
いつもお菓子をクチャクチャ頬張っているクチャ子ちゃんがやってきました。
クチャ子ちゃんもクチャクチャ咀嚼音を響かせながら、細断くずを一生懸命、押し込みました。

おばさんが再びシュレッダーに書類を流し込んでいると、またもやインジケータが赤に点灯してシュレッダーが止まりました。
おばさんはシュレッダーの扉を開け、中にたまった細断くずを一生懸命、押し込みました。
クチャ子ちゃんもクチャクチャ咀嚼音を響かせながら、細断くずを一生懸命、押し込みました。
煎餅は意外に臭いがキツイということを、おじさんはクチャ子ちゃんから教わりました。
いつもゲヘゲヘ咳き込んでいるゲヘ子ちゃんがやってきました。
ゲヘ子ちゃんも挨拶代わりにゲヘゲヘと喉を鳴らしながら、細断くずを一生懸命、押し込みました。

おばさんが再びシュレッダーに書類を流し込んでいると、またもやインジケータが赤に点灯してシュレッダーが止まりました。
おばさんはシュレッダーの扉を開け、中にたまった細断くずを一生懸命、押し込みました。
クチャ子ちゃんもクチャクチャ咀嚼音を響かせながら、細断くずを一生懸命、押し込みました。
同僚と仕事の話をしている最中も間食の手を止めないクチャ子ちゃんは良い度胸をしています。
ゲヘ子ちゃんも挨拶代わりにゲヘゲヘと喉を鳴らしながら、細断くずを一生懸命、押し込みました。
もしかしたら流行の柔軟剤なのかも知れませんが、トイレの芳香剤のような臭いを周囲に漂わせている臭い子ちゃんがやってきました。
臭い子ちゃんも周囲に臭いを撒き散らしながら、細断くずを一生懸命、押し込みました。

おばさんが再びシュレッダーに書類を流し込んでいると、またもやインジケータが赤に点灯してシュレッダーが止まりました。
おばさんはシュレッダーの扉を開け、中にたまった細断くずを一生懸命、押し込みました。
クチャ子ちゃんもクチャクチャ咀嚼音を響かせながら、細断くずを一生懸命、押し込みました。
電話中ですら隙を見て間食を続けるクチャ子ちゃんは筋金入りです。
ゲヘ子ちゃんも挨拶代わりにゲヘゲヘと喉を鳴らしながら、細断くずを一生懸命、押し込みました。
臭い子ちゃんも周囲に臭いを撒き散らしながら、細断くずを一生懸命、押し込みました。
あと20年くらい若ければ可愛いのかも知れないアラフォーのぶりっ子ちゃんもやってきました。
アラフォーちゃんもいつものぶりっ子口調で周りに声をかけながら、細断くずを一生懸命、押し込みました。

おばさんが再びシュレッダーに書類を流し込んでいると、またもやインジケータが赤に点灯してシュレッダーが止まりました。
おばさんはシュレッダーの扉を開け、中にたまった細断くずを一生懸命、押し込みました。
クチャ子ちゃんもクチャクチャ咀嚼音を響かせながら、細断くずを一生懸命、押し込みました。
ことある毎に太ったと嘆くクチャ子ちゃんは頑張って主食を減らしているらしいです。
ゲヘ子ちゃんも挨拶代わりにゲヘゲヘと喉を鳴らしながら、細断くずを一生懸命、押し込みました。
臭い子ちゃんも周囲に臭いを撒き散らしながら、細断くずを一生懸命、押し込みました。
アラフォーちゃんもいつものぶりっ子口調で周りに声をかけながら、細断くずを一生懸命、押し込みました。
いつも自分がいかに大変かとアピールするのに余念がないかまってちゃんもやってきました。
かまってちゃんも周りの人に聞こえるようわざとらしくため息を吐きながら、細断くずを一生懸命、押し込みました。

バーン! 大きな音を立ててシュレッダーの裁断くずをを入れる箱が破裂しました。
辺り一面に紙吹雪が舞い散ります。それはなかなかに幻想的な風景でした。
おじさんは、そっと替えの袋を棚に戻しましたとさ。めでたし、めでたし。

 

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もしJR東日本のアナウンスが正直だったら

2013-03-16 23:03:16 | 文芸欄

「次の電車をご利用ください、電車続いてまいります」

 

 

 

「次の電車をご利用ください、電車続いてまいります」と言ったな。あれは嘘だ。

 

 

 

電車は来る・・・・・・!
電車は来るが・・・
今回 まだ その時と場所の
指定まではしていない

そのことを
どうか諸君らも
思い出していただきたい

つまり・・・・
我々がその気になれば
次の電車が来るのは
10分後 20分後ということも
可能だろう・・・・・・・・・・ということ・・・・!

 

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好きな作家を問われると

2012-11-11 22:59:30 | 文芸欄

学校読書調査:中高生の好きな作家、「山田悠介」圧倒的1位 文豪は不人気(毎日新聞)

 毎日新聞が全国学校図書館協議会(全国SLA)と合同で実施した「第58回学校読書調査」の結果が26日まとまった。中学生と高校生に一番好きな作家を聞いたところ、1位はともにホラー作家の山田悠介で、他を圧倒した。

 全国の公立学校に通う小中高校生を対象に6月に実施、1万1313人の回答を得た。

 あらかじめ選んだ30人から一番好きな作家を答えてもらうと、中学生は18%、高校生は22%が山田悠介を挙げた。2位は中学生があさのあつこ(8%)、高校生が東野圭吾(12%)だった。

(中略)

 一方、中学生の27%、高校生の19%は好きな作家を答えず、夏目漱石、芥川龍之介ら「文豪」は全員3%以下にとどまった。

 

 中高生の好きな作家を調べてみたところ、山田悠介が圧倒的なんだそうです。まぁ、粗探ししてケチを付けるのは割と簡単な作家とも言えますが、私はわりと好きな方です。隙のない整った文章=文学として優れた文章ではありませんから。ちなみに引用元では「文豪」の代表として夏目漱石と芥川龍之介が挙げられており、これは概ね最大公約数的な評価と思われますけれど、海外では三島由紀夫が圧倒的になることが多いようですね。オゥ! ジャパニーズ、ハラキーリ! 外国人が「日本」に求めるものを最も満たしてくれる作家は三島由紀夫なのでしょう。

 中高生ならぬ、中学や高校の教師が好きな作家とか調べてみたらおもしろい気もします。塾業界とか、入試対策をかねて調べてみてはどうでしょう。私が受験生であった頃、国語/現代文のテストに最も頻繁に顔を出していたのは山田詠美と厳密には作家ではないかも知れませんが外山滋比古でした。学校(国語)の先生が好きな作家の2トップだったようですね。また滋比古かよ!と辟易しつつも問題文である以上は真剣に読むしかない、それも今となっては懐かしい思い出ですけれど、時代は多少変わったでしょうか。私が受験生だった頃と学校の先生の好みが変わっていないとしたら、それはそれで不安になります。

 なお中学生の27%、高校生の19%は好きな作家を答えなかったとのこと。私も、ちょっと答えに困りますね。漫画家とかゲーム制作者とか、あるいはロックバンドに作曲家、それからサッカー選手や野球選手でも、好きな一人を挙げるのは割と簡単ですが、好きな作家と問われると難しいです。一応、私の専門は文学であって就職に役立つようなスキルを放棄した分だけ文学には精通していると自負しておりますが、それだけに判断に迷うところがあります。一応、論文を書いた作家もいますけれど、そうでない作家も良い作家ですから。

 

 そう言えば『幼年期の終わり』という小説を読んでいたとき、「幼年期」に当たるのは作中の「オーバーロード」達だと感じたものです。前半部のあらすじを説明しますと、宇宙から「オーバーロード」と呼ばれる種族が飛来してくる、そのオーバーロード達の能力を持って地球上の諸問題が次々と解消されていく、ところが――みたいな感じでしょうか。オーバーロードによって指導される地球人が「幼年期」なのだと、そう見せつつ実は別の意味で「幼年期」であったことが終末に至って明らかにされるのですが、どうにも私にはオーバーロードこそ幼年期に見えていたわけです。

 というのも、作中では人類の抱える問題を瞬く間に解決していくオーバーロード達ですが、どうにもそのやり方は稚拙で説得力を欠き、率直に言えば「自分も中学校くらいの頃までは、そういうやり方で世の中の問題が片付くと思っていたなぁ」と、黒歴史が甦ってくるような印象を拭えなかったのです。中学生や、思慮分別のほどは同程度の大人が説く「こうすれば上手く行く」レベルの解決法を実践するのがオーバーロードであり、それで上手く行ってしまうのが作中世界だった、と。小説の眼目はその辺のリアリティとはかけ離れたところにあるにせよ、政治や社会問題の複雑さへの洞察が見えないオーバーロードにこそ私は「幼年期」を感じたものです。

 これとは逆の意味で印象深かったのが『ゲームブック 君ならどうする・食糧問題』という本でした。一時は流行ったゲームブックですが、その中で「食糧問題」というまるで場違いに見える題材を扱った本もひっそり出版されていたもので、まぁゲームブックとしても食糧問題の参考書としても一流ではなかったかも知れませんけれど、この本と出会ったおかげで私は一足早く「幼年期」を終えることができたとも言えます。でなければ、もう少し長いことオーバーロード的な問題解決手段を信奉し続けていたことでしょうから。

 上記ゲームブックの読者は食糧問題担当大臣として、様々な問題を前に決断を下すことを迫られます。そして表れる選択肢の大半は、どれも一見すると正しいように作られているのです。そして選択肢Aを選べば、一部の問題が解決する反面で今度は別の問題を発生させてしまう、では誤った選択であったのかと逆に選択肢Bを選べばと言うと、やはり一部の問題が解決される一方でまた異なる問題に直面することになります。普通のゲームブックでは、概ね「正解」の選択肢があるのですが、この「君ならどうする」では「正解」と呼べる選択肢がない、一応のゴールこそ用意されているものの、大半の選択では前述のように解決できるのは一部だけ、逆に新たな問題が……という繰り返しなのです。

 『幼年期の終わり』では「正解」が存在し、その正解を次々とオーバーロードが示しては実行していきます。しかし、『ゲームブック 君ならどうする・食糧問題』においては大半の場面で正解はない、明らかに間違っていると判断できる、特定の思想に駆られた人しか選ばないであろう悪意ある選択は初めから除外されており、概ね誠意あると思えるはずの選択肢が並べられている、しかしどれも正しくはない、そうした現実の難しさを「君ならどうする」は教えてくれました。良心的な選択だけではどうにもならない、それを理解した上で前に進まなければならない、そのことを早い段階で気づかせてくれた名著であったな、と(少し記憶の中で美化されているかも知れませんが)思います。悲しいことに、今や邦訳版の出版元は倒産してしまいましたが。

 

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極左党公約

2011-06-24 23:30:46 | 文芸欄

公約15というより目標

 

・日本人にもう一度「贅沢は素敵だ」と言わせたい

 

 

・老人党と同じバーチャル政党なので立候補はしません
・極左党代表代行:管理人(かん・まさと)とあろう事か現首相の菅直人は全くの無関係です
・自称中道と違って堂々と左に立つので極左党です

 

 

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現代のヒーロー

2011-04-04 23:43:33 | 文芸欄

 

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極左党公約

2011-03-09 23:46:53 | 文芸欄

公約14

・性的な要素の有無に関わりなく、
実在する児童を用いたビジネスを厳しく制限します

 

・老人党と同じバーチャル政党なので立候補はしません
・極左党代表代行:管理人(かん・まさと)とあろう事か現首相の菅直人は全くの無関係です
・自称中道と違って堂々と左に立つので極左党です

 

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議員定数削減と一票の格差是正

2011-01-28 23:47:00 | 文芸欄

日本がもし100人の村だったら

北海道民は4人です。
また、東京都民が10人であり
神奈川県民が7人、
千葉・さいたまが県民が5人
同様に、静岡3人・愛知6人・大阪7人・兵庫4人となり、
残り37府県は1人か2人となります。
しかし、鳥取県だけは0人となり、
鳥取など存在しないことが解ります。

 

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