ひどく焼け爛れ全容は不明ながら、かろうじて残された正面の石仏から、素晴らしいものであったことが窺える。
三重県旧美杉村太郎生は奈良県南東部の御杖村や曽爾村と県境を接し、山深く「山紫水明の山郷」という言葉がぴったり当てはまる処です。
ほど近くには指定文化財の「日神(ひかわ)墓地石仏群」などもあり、独得な石造文化で知られている。
そんな薬師堂と呼ばれる廃寺址の簡素なお堂に、原型も留めないほどに焼け爛れてしまった六地蔵石柱?が人知れず残されている。
正面から拝する石仏はこんな感じ・・・、堂の正面はちょうど真南向き、したがって唯一原型を留めた石仏も南を向いています。
つい最近までは簡素な荒壁を背に床から生えるように立っていて、その風情もこの上なく良い雰囲気を醸し出していましたが、現在その荒壁はベニヤ板で覆われ一寸興醒め・・・。
石仏はこの地域特有の柱状節理の大洞石をそのまま利用し、各一体を表裏に、双体地蔵をその隣面に配した四角柱のユニークな六体地蔵だったようです。
石柱の高さ凡そ2m、拝する人の目の高さと石仏の目の高さが同じ位置で刻まれた地蔵立像は、蓮台に立つ像高約40cm。
こちらは南東面から・・・・東面する二体の地蔵は全く原型を留めず、焼け爛れ粉々に断裂剥離しています。
南西面側・・・・・、正面、裏面は一体用の舟形、東面と西面は幅広の舟形の中に二体が併立して居たようです。
西面側の一体は殆ど原型を留めないながら、頭部と足許、蓮台が確認出来ます。
西面に周り込むとこんな感じ・・・併立する一体は足許と蓮台のみ・・・体躯は剥離して形跡さえ有りません。
頭部は残欠として床に置かれ空を眺めていて哀れを誘います。
裏面は御覧のように跡形も無く木っ端微塵に消失せぼろぼろ・・・・・。
正面の一体がかろうじて原型に近い姿を留め、彩色痕も残している。。
左手宝珠、右手は腰に伸ばし何かを握っているようにも見えます。
蓮弁にも少し彩色が残り、彫りは浅いながら大きく、程よい曲線で起ち上がっています。
体躯全体的には、写実的ですが少し略式化が見られ南北朝期か~室町初期の像立では無いでしょうか??。
お参りに来ていた地域の人の話に依ると、お堂を再建、石仏も補修する話しが持ち上がって居るようです。
このまま放って置くと今にもガラガラ音を立てて崩れそう・・・・、しかし不味い補修の上、堂内で鍵を掛けられ、遠目にしか見られないのも、ちと困るけど。
こんな姿で真近に見られるのは今だけかも・・・・・・。
敢えてMAPリンクは省かせていただきました。
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撮影2011.7.17:2012.3.7
あれから二度行きましたが、今はベニヤ板ですか・・・
お堂も立て替え補修するそうですが?どうなる事やらちょっと心配。
いまのうちなのかな…