この廃村の名前は解りませんが、かって存在した集落の証でもあるかのように残された石造物。
ここは集落のどういう場所だったのか??・・・寺跡、あるいは墓地への入口??。
まあいずれにしても村人にとっては大事な特別な場所だったに違いない。
前日紹介の八知小西から伊賀市青山へと伸びる旧八知街道の県道39号線、津市と伊賀市の市境「桜峠」近くの道路脇。
斜面に石垣を背負った山裾に、自然石で「石龕」を造り出し、それぞれに弘法大師と青面金剛石仏を安置している。
青面金剛石仏にしても・・・
弘法大師石仏にしても・・・・
石仏としては、わざわざ取り上げる程のものでは有りませんが・・・
かって、集落が有り、日常生活が営まれて居た証としての、この景観佇まいを黙殺して走り去る事は出来なかった。
撮影2012.6.2
この旧集落は、谷中(やんなか=おそらく山ンなかの
なまり)と言い、戦後まもなくまであった開拓村だった
そうです。
戦時中、名古屋方面を空襲した米爆撃機が帰還途中
に、何を思ったのか一発の爆弾を落としたところ、この
集落を直撃し、街から疎開していた子供を含む数人が
犠牲になったとの事です。その時はふもとの町までが
大騒ぎでケガ人の救助・手当にあたったらしい。
米軍は爆弾が一発残っていたので、攻撃による誘爆
を防ぐ為にテキトーに山中に落としたつもりだったの
かも知れません。が、平和なイナカの山村は地獄に
なってしまいました。
私もこの道を通ると、荒れるにまかせ山に還っていく
家屋や、石垣、石造物に気を取られますが、ここだけ
はその方がむしろ望ましいのではないかと思えます。
この事件の碑は、八知へ下りきる手前の不動寺さん
への道の傍に作られています。ネットでも探せば出て
くると思います。
検索で「平和の碑」確認・・・・。
貴重な情報有難うございました。