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愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

慶尚北道慶州市 南山茸長寺谷三層石塔

2011年10月24日 | 韓国 石仏:史跡他

石塔となると石仏よりも解らない僕ですが余りにも見事な景観にあり、素人目の僕にもその端麗さは充分に解る三層石塔です。

前回紹介の石仏より再度ロープ使ってよじ登った岩山、他には何も無いの岩盤に孤立、屹立しています。

岩盤を直接基壇に見立て上層基壇を設けその上に三層の塔身部と屋根を乗せている。

とりわけ特徴的な装飾や彫り物が有るわけでもないこの三層石塔は、新羅の石塔としては小振りな高さ約4.5m。

それにしても見事な景観の中にあって、慶州南山の代表的な仏教遺跡として必ず登場するほどです。

岩山に松林、眼下に広がる慶州郊外の黄金に色づいた里山風情。

9世紀統一新羅の造立、1200年もの間風雪と共にこの場所で建ち続けていたのだろう。

撮影2011.10.2

場所


慶尚北道慶州市 南山茸長寺谷石仏坐像/磨崖如來坐像

2011年10月23日 | 韓国 石仏:史跡他

この石仏達には去年、この南山に登った帰り道に寄る予定だった石仏。

大邱(テグ)から慶州(キョンジュ)に来て、いの一番に遭いに出かけた。

昨日のきつい山登りの翌日一番の山登り、少々疲れ気味の女房の小言を聞かぬふりしてまたまた山登り・・・。

市街からタクシーで約20分、南山中西部山裾に有る茸長里邑の奥、茸長寺址への登山道入り口までつれて来て貰った。

この谷は昨日に比べればまだまだ穏やか、谷筋道のあちこちに石積が見られます・・・・・、整備されたハイキング道とは言えこの程度・・・。

途中何度か迷いそうに成りながらも、ネットガイドで何度も読んだロープ伝いの岩場に辿り着く。

此処まで麓の村から約一時間半・・・・、昨日のように人と出遭うことも無い。

ロープ伝いに登りきった小さな台地に先ず目に飛び込むこの姿。

もう何度写真で見たことだろう、今こうして目の前に現実としてあるこの見事な円盤状台座を持つ石仏・・、しかし頭部は欠損、いかにも惜しいと言うか悔しい

三層を持つこんな円盤状台座にはお目に掛かったためしがない。

最上部台座と仏身は一石で造られその台座には見事が蓮華がぐるっと彫りめぐらされている。

基壇部は自然石を利用、その上の初層と二層目は石塔のそれに準えられ石仏の台座とは言わないようですが??

それにしても特異な様式でその不安定さからか??過去に何度も崩れ落ちたようです。

総高約4.5m見上げるほど高い台座に座する仏身は結跏趺坐する像高約1.5m弱、首無し坐像。

見事に流麗な裳裾と背後の三段重ねの蓮弁も見掛けた事がない・・。

頭部欠損のため想像するしかないが通肩衣の僧衣から僧形石仏ではなかったか??と言われています。

統一新羅造立、宝物第187号指定。

一方、ちょうど台座のような岩盤上の斜面から突き出した岩には磨崖如来坐像。

ちょうど三角握り状、大岩の正面中心部に二重光背を持ち、左手は膝の上にのせ、右手は下げて降魔触地印を示す。

台座は中央に大きく刻んだ蓮弁、左右は上向き蓮花を細長くを長く刻み付け

その上に大きく膝を張り、結跏趺坐する如来坐像をレリーフ調の薄肉彫りで刻み出している。

頭部は螺髪(らほつ)で、穏やか笑みをを浮かべながらも、引き締まった顔付で緊張感が伺える。

肉感豊かとはいえないが衣文は繊細に表現され、活気に満ちたものと成っている。

像高1.6m、統一新羅時代8世紀半ばを代表し、宝物第913号指定。

 

因みに此処は茸長寺の高僧が庵を結んで棲んでいたといわれています。

この石仏前の岩から見る里山は日本のそれに殆ど変わらない。

ただひとつ韓国の山に、あの杉の植林は無い。

撮影2011.10.2

場所


全羅北道南原 龍潭寺(ヨンダムサ)址石佛立像/他

2011年10月22日 | 韓国 石仏:史跡他

像高6mに及ぶ単立する巨大な石仏です。

しかし、やっぱり戦火に飲み込まれれ、最早見る影もなく焼けただれ、激しく傷んでいます。

前回紹介の萬福寺址より南原市街を越へ西方約12~13km、龍潭の流れが大きく迂回する内側台地に龍潭寺址があり、現在小さなお堂が2~3再建され、僧侶がその址を守っています。

ネットのページなどを見ると青天の下この巨大な石仏の写真を見かけるのでこの覆屋が建ったのはそう古い事では無さそう。

若い僧侶は僕たち日本人初老の僕たちを気持ちよく迎えてくれて、親切に接してくれた。

宝物第42号に指定されたこの石仏は、楕円形の自然石を利用した台座の上に立つ、一石から彫り出した如来形石仏で高麗初期の造立。

光背も頭上脇から欠損したのか奇妙な形に成っている。

それにしてもよほど戦火が激しかったのか石仏の焼け爛れかたもひどいもの・・

尊顔の目鼻立ちなども全く想像にまかすより他にない。

両手は前で腹部で組んでいるようにも見えるが激しい傷みでなんとも・・・・・。

この石仏の前で僕たち日本人は手を合わせ懺悔するより他になかった。

一方石仏の前には石燈籠・・・

その前方には今にも倒れそうなほどに細く高い七層石塔が建っている。

高さ約10m、高麗時代の造立。

他では見かけない造形・・・、こんなものが倒れもしないで良く建ち続けているもんだと不思議に思わざるを得ない。

撮影2011.9.30

場所


慶尚北道慶山市 冠峰石造如来座像(カッパウィ)

2011年10月21日 | 韓国 石仏:史跡他

この石仏は今回の旅では一番の難所、麓の登山口から、山道を約2.2km、冠峰と呼ばれる八公山の峰の頂上に有る大岩を穿って造られている。

それこそ途中からは杖か手摺がないと登れないような石段が延々と続いて途中何回休んだことか。この日は前に紹介した「桐華寺薬師如来磨崖石佛」とこのカッパウィだけの予定、いくら時間が掛かろうと登る決心でいた。

此処は大都市「大邱(テグ) 」の観光地(ハイキングコース)の様に宣伝されているがその実、行政的には隣町「慶山市(キョンサン)」に位置し、そちら側の禅本寺からも登山道があり、その寺の石仏だと言うことです。

はじめチョロチョロ中パッパ・・・・取り合えず登山道も最初はこんな具合で整備の行き届いた緩やかな登り・・。

それにしてもこの人の多さには驚く、これがみなこの石仏に会いに行く人、遭ってきた人・・・・。

歩き始めて約40分くらい、そろそろきつくなって来た頃、目の前に現れる韓国独特のストゥパー、韓国の寺域などでは良く見かけるけど未だに固有名詞が解らない。

目の前の高い石垣上に冠岩寺の境内・・・此処で冠峰までの約半分、この境内を越えていよいよ本格的な山登りとなる。

ガイドには登り約1時間と書かれているが、僕は最初から2時間と踏んでいた。

この登りだもん、とても一気には登れません、こちとら足腰貧弱な日本の初老・・・・、10歩進んでは一息。

それにしても、ぞろぞろぞろぞろ・・・・人並みは絶えません。

一休みした山頂近くから見た景色・・・・真下に見えるのが慶山(キョンサン)側の禅本寺かも??

やっと辿りついて見た石仏前のそれなりの空間はところ狭しと人の波・・・・五体投地用の敷物と、まさしく石仏にぬかずく人達。

石仏の前には供物を売る店もあり、此処はやっぱり韓国仏教の今に生きる一大聖地なのかも??

此処で願いをすれば必ず一つは叶えられるとか??受験や恋愛成就のために登ってくる若者の多いのもうなずける賑わいです。

前置きが長く成り過ぎましたが・・・石仏石仏、どうもみんな真剣に祈っているようで、中々思うようには撮影が出来ませんが・・・・。

俗称カッパウィと呼ばれるこの石仏は冠峰頂上の岩塊から一石で彫りだしたもので、冠をかぶったような平らな自然石を頭上に載せている。

石仏は像高4mという巨大さ、左手上の薬壺は見当たりませんが、方形裳掛座上に座する薬師如来だとされていて韓国一の薬師如来聖地になっているようです。

正面岩越に見る尊顔はよく引き締まり厳しい表情で緊張感に満ちている。

背面に屏風のように立つ岩壁が光背の役割を果たすよう造られているのか??右手は膝上でいわゆる降魔触地印を示している。

新羅27代王である善徳女王の7年 (638)に造立したと伝わる古石仏ですが、やっぱり此処までは戦禍も届かなかったようで、時代を感じさせないほど見事な保存状態です。

韓国宝物第431号指定。

大きな白毫、切れ長の半眼、1500年もこの地でこれほど見事に残っているのは不思議なくらいです。

苦労して登った甲斐は充分にありました・・・ただ、この八公山中にはまだまだ見るべき石仏が何体も有るようですが、またの楽しみにして下山。

往復3時間やっぱしちょっときつかった・・・。

撮影2011.10.1

場所


大邱(テグ)広域市 八公山桐華寺薬師如来磨崖石佛(パルゴンサン トファンサ ヤクシマエソクブル)

2011年10月20日 | 韓国 石仏:史跡他

文字もろくに読めなく言葉もしゃべれなく地理にも不案内、おまけに乗りなれた車にも乗れないと言う事は、かくも多くの時間と多くの努力が必要なんだと言う事をまざまざと感じた・・・。

こんな所にある磨崖なら日本では、さっとそばまで車で乗りつけ撮影していただろうが・・・。

この薬師如来磨崖石佛のある桐華寺は韓国中部地方きっての大都会「大邱(テグ)」の東北部に連なる霊峰八公山中腹に建つ新羅時代の西暦493年創建と伝える名古刹。

再興の折、冬にも桐の花が咲いたと言う伝説から寺名を「桐華寺」また、桐の林に棲み、その実をついばむという鳳凰に因んだ建物や装飾が多いことで知られる。

因みに大雄殿前に相対峙する楼門は「鳳棲樓」と呼ばれ、壬辰倭乱(文禄慶長の役)時には此処に嶺南僧軍司令部を置き僧軍を指揮したという。

さすが有名寺院、この寺の境内には案内所が二ケ所も有って薬師磨崖石佛の事を聞くがイマイチ要領を得ない、それもそのはず33mにも及ぶ巨大な統一薬師如来石仏が新しく造られそちらの方が有名に成っている。

要領を得ないまま何度も聴くうちに問題の薬師如来磨崖石佛は、ず~~っと下の参道に建つ「鳳凰門」脇、斜面に屹立する岩壁に刻まれているという。

広大な山岳寺院その鳳凰門までは参道を下って約20分ばかり歩くという・・・、下れば登りも有るのになあ・・・。

途中ちょっと脇に入れば巨大な統一薬師如来石仏が有るのに脇目も振らずにテクテクテク、ぴったり20分も歩くと、あの韓国独特のケバイ門、その脇に磨崖を思わせる岩盤。

来る人、帰る人、老も若きも誰もがこの前で立ち停まり、深々と体を曲げしばし手をあわせていく。

 高さ約5~6mの岩肌の上部に総高2m程の浮かぶ雲に乗る薬師如来石仏が刻まれている。

頂部には庇のように別岩が飛び出しまるで石仏を雨露から守っているようです。

仏身は浅く彫り沈めた二重光背野中央にやや薄い中肉で刻みだしその姿は何処から見ても見事に美しくその完成度は素晴らしい。

石仏は左手に薬壺を持ち右手は膝上で降魔触地印を示し、下向する蓮華座上に右足を突きし結跏趺坐する。

光背や飛雲の細工もレリーフ調ながら細緻にわたり見事な彫りです。

此処からそう遠くない慶州(キョンジュ)南山、神仙庵の磨崖菩薩半跏像と共通するものがある。

像高は約1mと大きくないが・・9世紀統一新羅後期の像立、宝物第243号に指定されている。

風化破損も少なく保存状態は良好です。

撮影2011.10.1

場所


全羅北道南原市 萬福寺址石仏/他

2011年10月19日 | 韓国 石仏:史跡他

KTR全羅線南原駅に程近い市街地からは少し外れた小さな川沿いに有る大伽藍跡の萬福寺址。

此処も文禄慶長の役ですっかり焼け野となり、つい最近の1985年に発掘調査が終え、現在3200坪のだだ広い境内は国の文化財に指定され、石塔や石の遺物のいくつかが靜かに寺跡を見守って佇んでいます。

史書に拠ると高麗時代の文宗(1046~1086年在位)に創建され、五重塔や像高12mにも及ぶ金銅仏が有り、数百名の僧侶が修行に励む大規模な寺院であったようです。

現在整備された寺域は、いくつかの土壇と新しく建てられたお堂が一棟、韓国の田舎民家をバックに、あとは緑一面の野原となって整備開放されています。

史跡の中に足を踏み入れるとなんとも目につくこの石造物・・・・・・??なんとも奇妙な石仏??チャンスンを思わすような柱状体躯に振り返ったような頭部。

土俗的な顔付き、両手は前に掲げ腰から下には裳を付けていて・・、なんとも見かけた事がない。

石人像と呼ばれているようですが???良くわからない。

ここを訪ねた第一の目的は何と云ってもこの石仏さん。

今まで草むしりをしていた数人のオモニが国定宝物石仏の傍らで昼寝をしていて、なんともおおらかな有りのままの韓国を感じる。

像高約2m、台座を含めた総高は3mにも及び、台座光背を含め一石の花崗岩より彫り出している。

円頭光を中心に見事に装飾された光背、良く引き締まった体躯、手首から先は欠損しているが施無畏印(せむいいん)、与願印(よがんいん)を示していたと考えられる如来型石仏です。

永らく土中に有ったのか比較的保存は良いが戦乱に遭ったのは素人の僕にも一目で解る。

この寺の創建時(1046~1086)と共に造立されたと考えられ、宝物第43号指定。

堂の傍らに建つ萬福寺五層石塔。

塔高5.5m 、やっぱり戦乱の傷痕か欠損していて痛々しい。

 

寺の創建時に造立、宝物第30号に指定されてる。

宝物第32号指定の幢竿支柱。

萬福寺創建時の高麗時代のものだとか・・・。

韓国の古寺址には必ず有ると言える程良く見かける・・・・、荒野に屹立する幢竿支柱は韓国の原風景かも??

しかし日本では見かけたことが無いけど、どうしてこれは伝わらなかったのだろうか??

これも創建時に造られたと云う佛像台座、宝物第32号指定。

どんな仏像が鎮座していたのだろうか??

台座から想像するにかなり素晴らしい巨像が有ったに違いない。

因みにここは誰でもが通りすがりにでも足を踏み入れる事が出来る全くのオープンスペースです。

撮影2011.9.30

場所


全羅北道南原市 新溪里磨崖如来坐像

2011年10月18日 | 韓国 石仏:史跡他

雨の日の翌日は爽快に晴れ渡る青空が特に蒼く、韓国全羅北道田舎周りの旅をより印象強いものにしてくれた。

しかしこの日からメインカメラは失っての片肺飛行になってしまった。

まるで大和の白鳳仏そっくりのその顔容、やっぱり此処は飛鳥のふるさと・・・あの「国宝山田寺仏頭」にも瓜二つ。

この朝早くに益山のモテルからKTR全羅線で約一時間足らず、南原駅に降り立ち先に遠方の1箇所を廻り、昼一番にタクシーを拾いここまでやって来た。

市街からそう遠くは無いけど、運転手のアジョシには悪いような悪路の山道、ボディーを擦り、腹を打ちながらもこの石仏の有る参道入り口まで連れて行って呉れた。

あの運転手のアジョシには感謝感激です。

参道といえど松林が広がるただの山道、建物らしいものは何も無く10分ばかし斜面を登ると石垣を詰まれた台地状の一角に石仏の頭が見え出してそれとわかる。

こちら韓国では見慣れた大きさだが・・・・やっぱり大きい。

斜面台地に突き出した大岩自体を彫り刻み、光背と共に一つの石で造成したマエソクブル(磨崖石仏)・・・。

総高3.4m、統一新羅時代の石仏様式を良く踏襲した高麗初期の造立だとされている。

 岩全体を光背に見立てその前面を丸彫り近く深く彫り刻み、岩盤をそのまま台座とした上に如来坐像を彫りだしている。

円形頭光には単純化された11枚の連弁、外部には連珠紋帯、さらに火焔紋を全面に配している。

全体的に保存は良く、戦乱の影響を受けた形跡も見出すことは無い。

豊満できれいな顔に豊かな表情、量感豊かな体躯は大和の白鳳仏を彷沸とさせてくれる。

手印は特殊な古式で如来には違いないが仏名まではわからない・・・。

韓国の場合そんな時は大抵ミロクブル(弥勒佛)、韓国宝物第423号指定に指定されている。

撮影2011.9.30

場所


全羅北道益山市 蓮洞里(石仏寺)石佛坐像

2011年10月17日 | 韓国 石仏:史跡他

韓国3日目の終わりに訪ねた石仏は鄙びた農村の古寺という風情で山門には弥勒山石佛寺の扁額が掲げられていた。

狭い境内に入るとオモニが庫裏の縁側で真っ赤な唐辛子をより分けていて、一声掛けると傍らの大雄殿を指差してくれた。

現在でも大雄殿の本尊として、信仰対象の石仏さんとして篤く祀られています。

ぱっと見には、上半身が白っぽく、頭部がアンバランスで異常な感じの強い石仏です。

やっぱり日本の倭寇、「文禄慶長の役」の犠牲になり頭部は失われ、近代に新しく後補されたようで馴染まない。

それでも光背や、体躯は百済時代(西暦600年頃)造立当時のまま残されており貴重な石仏だといわれています。

弥勒山の山号通り弥勒石仏なのでしょうか??どうしてもた「タコ入道」のような頭部の異様さが邪魔になります。

賑やかな供台で下部は全く確認は出来ないのですが四角形の裳掛台座になっているようです。

韓国宝物45号に指定され、光背高は約3.3m、頭部を除いた像高156cmとかなり大きい。

因みに光背は法隆寺百済観音の原型だとされています。

撮影2011.9.29

場所


全羅北道益山市 古都里石仏立像

2011年10月16日 | 韓国 石仏:史跡他

ネットで検索していてなんとも奇妙で、どうしても出遭いたくなった石仏さん??です。

全羅北道益山市はずっと紹介してきた忠清南道と道境を接する、KTXの走る湖南線沿線の地方都市のひとつですが、僕もこの街のモテルで二泊したほど都市機能の良く整った街です。

扶余の街角で拾ったタクシーで前回紹介の大鳥寺に寄り、そのまま白馬江の下流、錦江の大きな流れを渡り約1時間、益山の街に入りそのままこの古都里石仏に遭いに来た。

益山市街を少し外れた高速道路脇に広がる耕地、小川の流れを挟んで二体の、一見電柱でも建っているのかと??見まごうような石柱状の石仏が建っている。

新しく盛り土された小高い頂部に建っていて、周囲は農作業に来た人たちの格好の駐車場と化している。

四角柱状の花崗岩にモニュメント宜しく様式化されたような体躯、その上には四角い顔を刻み

頭頂部には宝冠と高麗仏の特徴であるあの宝蓋を載せている。

相対する石仏は小川を挟んで200mほど西側、やっぱり農地の空き地に盛り土をした頂部に建っている。

二体共に殆ど瓜二つ、よく見ないとどちらがどちらなのか見分けもつかなほど・・

腕も無く、突然体躯に生え出た手を腰上で組み、顔はわずかに笑みをたたえている。

まるで石チャンスンの様ににも見える土俗臭を感じなくも無い・・、まるでこの地の守護神のようにも??

すぐ近くには王宮里と呼ばれる百済時代の離宮址もあり、その関連も考えられるが、時代的には全く合わない高麗末期の造立。

像高共に約4.3m、耕地の只中に有って共に向かい合う石像は周りの景観に良く溶け込み韓国の田舎を彷彿とさせてくれる。

韓国宝物第46号指定。

男女像だと想定され、風水的な意味も込められ、配置方法が特異で注目されている石像です。

撮影2011.9.29

場所


忠清南道扶餘郡 大鳥寺石造弥勒菩薩立像

2011年10月15日 | 韓国 石仏:史跡他

定林寺の有る扶餘中心街より南に約10km程走った里山のなだらかな斜面に建つ大鳥寺の、やっぱり巨大な高麗時代の石仏です。

実は此処を訪れたときには土砂降りの雨、それでも傘が邪魔に成るからとて傘も挿さずに撮影したものだからメインのカメラがすっかりこれ以後不調・・。

何も解らない韓国ではどうしようもなく、この日以後は全てサブのコンデジ1台でカバーする始末になってしまった。

帰国してもやっぱり不調、メーカー見積もりを取れば新しく買い換えるほど修理代が嵩むのでボディーを買い換える羽目になってしまった・・。

ああ~~過ぎたるは、及ばざるが如しか・・、無茶はするものでない??

愛機での最後の写真となってしまったこの大鳥寺の大弥勒石仏、そんなこと知る由もなくただただ激しい雨の中に立ち尽くしていた。

境内の奥まりに有る円通殿、その脇を少し斜面に登るとこの巨大な石仏、やっぱり大きな屹立する岩から頭部を含めて一石で彫りだしている。

その高さ約10m、頭上の宝冠と二重の宝蓋は別石で調整されているようです。

しかし、前々回に紹介した潅燭寺の弥勒石仏そっくりのその容姿、幾分小振りで顔容も穏やかに見えるが・・

忠南地方の一石大石仏はどこでも同じように前面はそこそこ装飾加工されているが、背面はどれを見ても切り出したままの荒削りです。

なんと言っても特徴的な宝蓋をつけて高麗前期、高麗元宗 (1260年頃)の造立だとされています。

韓国宝物217号指定の弥勒石仏です。

雨の日の撮影はカメラにカバーを掛けましょう。

ラップフィルムをカメラバックに入れ込んでおこうかな・・・・・・

撮影2011.9.29

場所


忠清南道扶餘郡 定林寺五層石塔/毘盧遮那石仏座像

2011年10月14日 | 韓国 石仏:史跡他

言わずと知れた日本とつながりの深い百済最後の都、扶餘(プヨ)の定林寺は「扶餘郡」郡都、扶餘邑の中心に位置して、周りを多くの百済史跡に囲まれている。

その昔、百済と日本の連合軍は、半島西部、白村江で「新羅、唐」の連合軍と戦い退敗、此処から北方約1km白馬江「落花岩の悲劇」が生まれ百済は滅びた。

この定林寺も西暦660年、唐・新羅連合軍の百済攻略にすべて破壊され灰燼に化したという・・・・。

当然此処もまた何度も訪れることになるとは思うが今回は雨の中、論山から郊外バスに揺られて大急ぎでこの定林寺だけはどうしても外せないと遣って来た。

古いWEBページなどを見るとだだ広い赤土の原野に土壇が点々と並び、この五層石塔と石仏だけが青天の下、佇んでいる。

 五層石塔は広い定林寺遺跡のほぼ中央部、発掘調査の終わった土壇の上に孤立している。

この寺址で唯一百済時代の遺物で有るという五層石塔・・・韓国最古の石塔だとされ、石塔様式の発展過程を知ることができる重要な作品だと位置付けられているようです。

定林寺の創立と共にその歴史、運命を共に石塔はやっぱり火災 に遭った様な痕が伺われるが、現在実に堂々と屹立していて、荘重な感じがする。

木造塔の構造様式をを石材に換えて表現してあるといわれており、どこかあの法隆寺の五重の塔のシルエットに重なる。

基壇上の初軸部には西暦660年7月18日、唐軍が扶蘇山城、王宮に入城、その百済平定記録を刻みこんでいる。

肉眼での判読は不可能だが・・・・唐が百済を平定し、百済の王と臣下を捕虜とした事実などを記録しているという。

百済を象徴する石塔に刻まれた百済の最期・・・・・なんとも哀しい運命を背負って建ち尽くしている。

高さ8.3m、国宝第9号に指定されている。

一方新しく再建された金堂内の他に何も無いがら~~んとした広いスペースぽつんと佇む石仏・・・・・

永らくは青天の元に在り、その混乱の歴史を物語るように見る影もなくひどく痛んでいる。

この定林寺は、唐の平定にて廃頽、後高麗時代には再興され再度繁栄したと思われ、その時代の遺仏だとされるのがこの石仏です。

度重なる戦乱で焼け爛れ赤っぽく変色、粉々状態で再築された八角形の見事な二重??三重台座、蓮弁は基部で下方に開き、上部石仏台座では上向きに開いていたと思われる

体躯はほぼ、つんつるてんで何がなにやら状態、ただなんとなく左手の人指し指を右手で握っている様にも見え、毘盧遮那仏坐像ではないかと言われています。

頭部や高麗形式を踏襲した宝冠は到底アンバランスな素人造りの近世のもの。

この石仏にしても何度戦火に焼かれたのだろう、今は穏やかな顔のように造られて居るが・・・なんともむごい歴史を見て来たに違いない。

この焼け爛れ、崩れた台座がそれを良く語っている。

総高約5.6m、韓国宝物第108号に指定されています。

扶餘定林寺址HP

撮影2011.9.29

場所


忠南論山市 特坪里(トッピョンリ)如来石仏立像

2011年10月13日 | 韓国 石仏:史跡他

何をどう間違ったのか??、タクシーのアジョッシが連れて行ってくれた石仏さん・・・・、多分僕が住所をどこかで取り間違えたのだろうが??

先に紹介した灌燭寺から北東へ約5km、KR湖南線「夫皇駅」近く、なだらかな斜面の小さな集落「特坪里(トッピョンリ)」の民家脇の台地に佇んでいる石仏さんです。

まあ、日本で言えば村の地蔵さんと言った類でしょうか??それでも忠南道の文化財には指定されてますが、何よりもあの煩わしい涎掛けの無いのがうれしい。

見てください、なだらかな韓国の山には杉の植樹がなく松林がどこでも広がっています・・・・、いまや日本では見れなくなった自然の山と言う感じがします。

この地にも往時「云除寺(ウンジェサ)」と呼ばれた寺があって、この石仏はその遺仏だといわれています。

下腹部は突き出しているが背後に廻ると、こんなに薄っぺらくて何の飾りも無い。

石仏はご覧のように丸彫りの如来立像で高さ約2m、民家の片隅に置かれてる石仏としては中々どうして大きなものです・・、此処では寺院の堂さえ再建されては居ないですが。

顔は風化や痛みも激しいいが、大きな肉髻(にっけい)まん丸ぽっちゃり顔はまるでキューピー人形のよう・・・・・。

手は共に切り取られたように欠損しているが右手、施無畏印(せむいいん)、左手、与願印(よがんいん)の釈迦如来のようにも見える。

これでもやっぱり高麗時代の造立、少なくとも日本で言えば平安後期頃の事だろうか??・・・

撮影2011.9.29

場所


忠南論山市 松佛庵弥勒石佛(ソンブルアムミロクソクブル)

2011年10月12日 | 韓国 石仏:史跡他

どこか幼さの残る顔で立ち尽くす高麗後期から李氏朝鮮前期(1300~1400年頃)に造立されたと言われる石仏です。

論山市のはるか北方郊外「鶏龍市」との境界近く、里山の斜面台地に立ち尽くしています。

「壬辰倭乱」時に兵火で焼き尽くされ廃虚となってしまった「石佛寺」といわれる寺院の弥勒石仏だといわれています。

後、最近になって現在地に祀り直し、傍らに石仏の背後に有ったと言う松の大木に因んで松佛庵というお堂も建てられている。

現在、石仏の背後に松ノ木は無いが、その傍らにはこんもりとした松の木が有って再度石仏を移動したのかも知れない。

石仏は高麗期の特徴そのままの柱状長身の丸彫り石仏で、総高約5m、角ばった顔の頭上には鍋蓋上の宝蓋を載せている。

体躯の背部は殆ど荒削りのままの石材でなんの装飾も無く・・円盤上の台座は返り蓮弁が刻まれています。

前面体躯はワンピース状の衣に衣文が刻まれ、右手は胸に、左手は脇に下ろされ与願印の様にも??

しかし韓国の場合印相など殆ど意味を持たない様です。

因みにこの石仏さんも如来やら菩薩やら良くわかりませんが、韓国では殆どの仏さんが弥勒仏(ミロクブル)と呼ばれることが多いようです。

どこか俗っぽさのある、遠くを無心に眺めるちょっと幼い自分の子供の頃の姿を見出すような石仏さんでした(決してこんな理知的な顔はしてませんが)。 

撮影2011.9.29

場所


忠南論山市  灌燭寺(グァンチョクサ)石造弥勒菩薩立像

2011年10月11日 | 韓国 石仏:史跡他

僕達日本人が持つ磨崖石仏の概念を見事に打ち砕いてしまうような石仏です。

8日間の韓国石仏巡訪の旅で唯一雨に降られた日の9月29日、忠南の地方都市、論山市を訪れたのは巨大で妙な顔つきのこの石仏を見るのが第一の目的でした。

論山市街を少し離れた郊外、幹線道から少し入った参道に建つ「磐石山灌燭寺」の山門脇をタクシーで通過・・・・

参道奥に有る、多分四王門と書かれた門前で車を降りる。

ブルー基調で見事な満艦飾の門内両脇にこれも見事な彩色を施された四天王??

どうもケバケバしくて、なんとも日本人の僕には馴染がたい様相です。

山内に足を踏み入れると、この大雄殿でもそうで有った様に韓国の寺では、どこに行ってもあの木魚をポクポク叩くリズミカルな音と「五体投地」で祈る姿を見かける。

まさに観光寺院ではなく今に信仰が生きている寺だと強く感じないわけにはいかない。

しかし、此処ではちゃんと1500ウォン(約100円強)の拝観料は払いましたけど。

問題の石仏はなだらかな岩山斜面を背にして、巨大で奇妙な顔立ちで立っている・・・・、どうも日本の石仏を見慣れてる僕にはちょっと異質なものを感じないでもないが。

石仏正面には拝堂があり、その円窓からはこの尊顔が飛び込むように出来ているようです・

拝堂と石仏の間には五層石塔とちょっと見慣れない石灯篭が一直線に配されている。

石仏の前にはやはり「五体投地」用の長方形の敷物・・・、しかしこの石仏が磨崖だとは俄には信じ難い・・・。

屹立していた岩山を切り刻み下半身を彫り出し、上半身と顔は別石で繋ぎ合わせている。

高麗初期の 光宗19年(968)に着工、約38年を要して1006年に完成したといわれる韓国最大の石仏です。

胴回り約11m、総高18mを越える巨大さで、顔部や体躯に比して手が異常に大きいのが目に付く。

しかしなんと言ってもその特徴的な巨大カッパの親玉の様な頭に長い宝冠を被せ、その上に二重の四角い宝蓋を載せ四隅には風鈴を吊下げている。

これが韓国高麗期石仏のひとつの特徴、丸彫り石仏に天蓋、どうも馴染めない姿です。

それでも良く見ると石仏としての完成度は並離れて素晴らしく、顔の彫などはまるで大理石を磨き上げたように滑らかです。

1000年以上も前、この地にこんな巨大な石仏を造る必要があったのだろうか??

この地で1000年という気の遠くなる時代を見続けてきた弥勒仏、さぞや目を覆いたくなる事もいっぱい有っただろう・・・・・

今はちょっと奇妙な顔に穏やかな笑みをたたえているように見える。

撮影2011.9.29

場所 


忠南論山市連山面 開泰寺三体石仏

2011年10月10日 | 韓国 石仏:史跡他

余り日本人好みのする石仏では有りません(いや僕好みしないだけか)??

最近になって寺として整備されたのか??ネットで検索すると青天土壇上のこの石仏の写真が出てき来たりする。

韓国の場合はいたるところの史跡で急ピッチな文化財整備が行われており、今回の旅でもせっかく訪ねても撮影も出来ないところが何箇所もあった。

此処は向こう読みでは「ゲテサ」と呼ばれる高麗初期の古刹址、度々の倭寇ですっかり廃退、1934年以降から少しずつ再建され出して今の姿に成ったようです。

それまでは市街から外れたなだらかな山裾の荒野にこの石仏と石塔だけがぽつんと建っていたようです。

荒野時代の名残か?境内には柿の大木が1本・・・・

境内左手脇の真新しい極楽大宝殿と書かれた本堂の本尊としてこの三体石仏は祀られていました。

勿論拝観料が居るでもなく、撮影禁止でもなく今も信仰の対象としてしっかり根付いているようです。

三体の間に掛け渡された綱はいったい何を意味するものでしょうか??

中尊の如来型石仏は総高約4.2m、供台が邪魔になって見えませんが復縁伏蓮方形基壇の上に建つ丸彫り立像です。

尊顔もどこと無く日本人好みのしない顔つきで目にはペイントまで施されています・・・、はたまたこのアンバランスな手の大きさはどうしたものだろう??

脇侍の両菩薩??はそれぞれに総高約3.2mで八角形の蓮華の台座に載っているようです。

中尊に比べ脇侍の方が体躯の意匠の細緻さには長けて居るように見受けられます。

いずれにしても僕達日本人の感覚ではそれほど良さそうな石仏には見えませんが・・・ただ巨大な涎掛けが無いのは嬉しいですが。

高麗初期の西暦1000年前後の造立、韓国宝物第219号に指定されています。

撮影2011.9.29

場所