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愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

全羅北道南原市山内面 チャンスン(長柱)とソッテ(鳥竿)

2011年10月09日 | 韓国 石仏:史跡他

全羅北道南原市郊外の霊山「智異山」北東斜面 裾野あたりの里山、「古刹実相寺」門前に石長丞(石のチャスン)が有ると知ってどうしても外せないと訪ねてみた。

<だだっ広い耕野の一角に再建された「実相寺(シルサンサ)」の門前>

殆ど日本の観光客など来ないと思われる片田舎、日本の倭寇、「文禄慶長の役」で全てが灰燼と化した新羅の興徳王三年(828)に創建された名古刹です。

当時豊臣軍は我が遠い故郷の兄弟と殺しあってるなどとは思いもしなかったのだろう??

寺域と外部を隔てる「ラム川」に架かる「ヘタル橋」の手前畔に一体の石チャンスン。

高さ約3m弱、幅約40cm強の石柱状の花崗岩上部に、この象徴的とも滑稽とも思われるような顔を刻み出している。

体部には漢字で「擁護金紗逐鬼将軍」と刻まれていてハングル登用以前の造立の物だと伺える

頭に三角帽子、飛び出したドングリ目にだんご鼻と大きな耳を持って立ち尽くしている。

約50mぐらいの短い橋を渡ると田圃の中を行く参道の両脇にも一体ずつの石チャンスン・・・こちらは左手。

これは一番大きくて高さ約3m強ぐらいも有るだろうか??橋の手前のチャンスンよりもっとなにやら象徴的・・

イースター島のモアイやトーテムポールと良く似たものを感じる・・・・

しかしこちらのチャンスンは大きな三角あご髭を蓄えて睨みつけている。

片や対面する右側のチャンスンはややスマートで洗練されているようにも??

やっぱりドングリ目玉の団子鼻・・・やっぱりあご髭は蓄えている。

通常チャンスンは男女で一対として陰陽の調和をはかるようだが此処では全て男のものである。

元々は橋の手前に二対四体 有ったものが1936年の洪水で一体は喪失、一対は川向こうの現在地に移されたという。

三体共に統一新羅時代の造立で重要民俗資料第15号に指定されている。

こうした石チャンスンは集中してこの地域に多く残されているようです。

もうひとつ僕が恋焦がれていた有るがままの木製チャンスンとソッテが傍らの農道に建っていました。

有るがままの姿と言ってもこれはおそらく観光客向けに新しく作られた物でしょうが、なんとなく博物館や民俗資料館で見るものよりは有るがままの姿に近いものだと納得できます。

韓国の田舎、里山地域の空は日本の青空とは桁違いに透明感が違って、青く澄みわたっている。

木製チャンスンは男女1組で・・・・胸には大きくハングルで男の方には「天下金将軍」、女の方には「地下土将軍」と書かれている。

こちらの方はちょっと僕には読みきれない・・・後ろの黄金色は日本と何も変わらない。

威嚇的な人面を刻み、かっと見開いた目、裂けた口とむき出しの歯は疫病や悪霊外敵を威嚇し、追い払う魔除けの呪物として相応しい・・・・

反面、チャンスンはその威圧的な形相の割には、どこかユーモラスでおどけたところが有り、それが守護神の役割を果たしていないことをも充分承知して、のろまで間の抜けた人を「チャンスンみたいにのろまだ」と揶揄したりもするそうです。

しかし、いろんなことを聞いても、この原始信仰にも近いチャンスンやソッテを持つ韓国の農村はなんとも魅力的でとっても心が癒されます。

勿論ソッテの鳥は鳥居の鳥と同じ意味を持つのだろう。

はるか遠い昔、僕の祖先はこの土地から海を越えてきたのだろうか??

撮影2011.9.30

場所


忠清南道洪城  新耕里磨崖石仏/龍凰寺磨崖仏  

2011年10月08日 | 韓国 石仏:史跡他

前回紹介した瑞山龍賢谷から山を下り、途中何箇所かめぼしい石仏を訪ねて貰ったが、言葉の不自由さや全くの予備知識不足のため見つからずその日の最終目的地である洪城群の龍凰寺を訪ねた。

此処も韓国の古刹の例に漏れず、人里離れた山中に在って、拝観料を払う受付からは山道の参道を1kmばかり歩く事になるが、タクシー運転手と受付の伯父さんとの話し合いで山門までタクシーで乗り付けて貰った・・・・、KTRの時間が決まっていたので有難き幸せと甘えておきました。

山門前のわずかな空き地で車を降りるといきなり左手大岩に磨崖石仏の刻まれているのが目に入る・・・・、まさしくネットで確認していた磨崖です。

斜面から突き出した高さ5mほどの岩に高さ約2.3mの肉髻(にっけい)が良く整った釈迦如来だろうか??

細い目、口元には僅かばかりの笑みを持つ穏やかな顔容・・・・尊顔に比べると体躯下部の磨耗風化が激しいように思われる。

向かって左手の銘に拠ると今から約1300年前、新羅昭成王(ソソンワン)一年(799)の像立だとか・・・

忠南有形文化財118号に指定されている。

正面石段を登り詰めると境内正面には本堂に相当する龍凰寺大雄殿・・・・。

大雄殿左脇から山道が斜面をクネクネと伸びていてヒイヒイ登ること約15分何とかその日の最終目標の石仏さんに出遭うことが出来ました。

石仏は緩斜面に突き出した大岩の正面を整形、二重光背状に深く彫り沈め、中に像高4m、肩幅1.4mの如来形立像を厚肉彫りで刻み出している。

左手施無畏印、右手降魔印の釈迦如来立像のように見えます。

穏やかで張りが有り、少しアルカイックな笑みも見える・・・顔容の充実ぶりに比べると体躯は少し貧弱に見えるが衣文は流麗に流れている。

頂上には高麗佛の特徴である四角い鍋蓋のような笠が載せられ、白毫(びゃくごう)には当時のものかは解らないが紅い玉もはめられている。

造立は高麗時代の初期、西暦1000年前後だと考えられて居るようです。

大岩は少し前かがみ状態になっていて、最近斜面も整地されたのか、少し趣きに欠けるきらいは否めない

日本の重要文化財に当たる韓国宝物第355号に指定されている。

帰り道見かけた山の土饅頭の墓・・・・・韓国の山肌のいたるところで目に付きます。

傍らの石柱は何を意味するのでしょうか??

人気の無いKTRローカル、長項線洪城駅のプラットホーム・・・・。

韓国の鉄道システムには驚きの連続、乗るのも降りるのも改札は全くのフリーパス、その上車中でも全く検札も無し・・切符は今も旅行カバンの中で居眠りしてます。

あれは徹底した合理化の結果なのだろうか??、おまけに構内のエスカレーターは人が乗ったときだけ動くようになっている(これはローカル線だけでなく)。

エコエネの時代、日本でもまねたら良いんじゃない??(もうすでに有るのかな)

撮影2011.9.28

場所


瑞山市雲山面龍賢里 カンデンイ弥勒石仏

2011年10月07日 | 韓国 石仏:史跡他

言葉が通じなく文字が読めないと言うことは、かくも大変だとしみじみ噛みしめる旅でした。

若者ならまだしも片言の英語で何とか話は出来るものの、中年以上になると全く意思の疎通が出来なく、身ぶり手振りで情けなくなる始末・・

前回のように国宝級ならいざ知らず地方都市の文化財で探した石仏などはタクシーの運転手に近くまで行って貰って、地元民に聞いてもらっても殆ど見つけられずに涙を呑みました。

おまけに頼りにしていたタブレットPCも田舎じゃ殆どWIFI電波が届かず使用不可・・・・、ハングルが恨めしい、せめて漢字なら何と無くなんだけど・・・・。

この石仏はたまたま前回紹介の磨崖三尊石仏への道筋に在ってラッキーにもすぐに見つける事が出来ました。

正確には忠清南道瑞山市雲山面龍賢里カンデンイ弥勒石仏と言うらしいのですがハングルではどう呼ぶのか ??色々ヤフーコリアで検索しても出てこなかった。

掲示板はハングルと英語だけ何がなにやら??・・・・、英語では、Bowon-sa Tenple totem poleと書かれていました。

高さ2m余りの土饅頭に葺石を敷き詰めその上にトーテムポールのような高さ約2.2mの石仏?を立てている。

日本では見かけない、多分李朝時代のものではないかと思うのですが??

韓国では高麗後期から石仏は多くの場合、(後からも何点か紹介しますが)このような石柱形の巨大な丸彫り石仏(これは小さいですが・・)が多くなるようです。

石仏は弥勒と呼ばれてもおかしく無いような手印、スカートでもはいているような前垂れで足元は葺き石に隠され定かではない。

この石像は、石仏としてより、もっと土俗臭の有るチャンスンとしての性格が強いもののような気がする

石仏としての価値はそれほど無さそうだが、韓国石仏の一種で有ることには違いなく中々味わい深いものがあります。

また何か解ったら書き加えるかもです。

撮影2011.9.28

場所


忠清南道瑞山 磨崖三尊仏像(マエサムジョンブル)

2011年10月06日 | 韓国 石仏:史跡他

今回の韓国の旅でどうしても見ておきたかった磨崖石仏です。

プサンからソウル行きのKTXで約2時間余り、ティアンアザンで在来線のムグファン号に乗り換え約30分、イエッサン駅前からタクシーを拾って約30分、何とかソサン伽耶山渓谷沿い、磨崖石仏の在る麓にたどり着きました。

KTRプザン駅を朝7時に出発、この磨崖石仏の前に立った時はもう11時を過ぎていて、やっとたどり着いたんだという思いが強く、その石仏の素晴らしさと共に感激も一入、無宗教の僕も思わず手を合わせ暫くは、ぼうっと眺めるよりは無かった。

渓谷を良く整備された橋や石段で10分程登りつめて行くと・・・

こんな石積みがあちこちに・・・韓国の仏址では良く見かけるが名前は知らない。

登りつめた狭い台地には案内所を兼ねたお堂のような建物・・、勿論仏様は祀られているのだろうが近世になってから建てられたものだろう??

帰途に写したので逆方向だが、この門を潜ってしばらく斜面を登ると・・・

やがて対面することになるこの釈迦三尊磨崖石仏

中尊の釈迦如来は像高2.8m装飾された大きな円光光背を背負って中肉彫りで刻まれて居る。

上部には大きな岩が庇のようにせり出しこの磨崖三尊仏像を風化を防いでいるのか?百済の後期(6世紀半ば)の像立が信じ難い保存の良さです。

韓国の歴史や地理は良く知らないのですが此処は、忠清南道瑞山市、伽耶山を流れ落ちる賢渓谷、百済の都、プヨから中国への玄関口泰山半島の道筋に当たるとか??

とにかく中尊の口元をゆがめてはにかむ様に微笑む童顔がなんとも印象的で流麗な衣装や、精緻な光背にも目を見張る。

脇侍も見事な彫り出しで、向かって右手、菩薩半跏像は像高約1.7m

向かって左手菩薩立像は約1.7m・・・、共に静かな微笑を称えている。

現存する韓国の仏像の中で最も美しい微笑を持つと言われ、「百済の微笑」と讃えられるのも納得のいく石仏です。

韓国国宝第84号に指定されているが、申し訳程度の低い柵はあるものの真近に近寄れ、別に監視人が居るわけでもなく、その上拝観料を取るでもなく・・・。

そんな、大らかさの有る韓国の懐深さを感じる。

撮影2011.9.28

場所


韓国,慶州で見かけた様々なもの-2

2010年11月08日 | 韓国 石仏:史跡他

仏国寺極楽殿の庇です。

総天然色フルカラー、わびさび好みの日本人には有難味が薄いかも???。

これも有難味を薄く感じるかも知れないけど、金ピカの金銅仏、しかし本来の仏教美術は金ピカピン。

最初から侘び寂びた仏様など有り得ない。

韓国中学生の修学旅行??,何処も同じですが、むこうで制服姿はついぞ見かけなかった。

これが日本の神社に相当するのか??◯◯閣・・、幼稚園児の行列が覗きこんでました。

良洞の民族村にて。この地の祖霊でも祀っているのか?建物の中には石碑のような物。

街道筋の骨董屋さん??で見かけた「チャンスンとソッテ」,これは僕の好きな勧請縄の韓国版、いや日本の勧請縄はこれの日本版。

本来有るべき姿で有るべき場所で、是非とも出逢いたい。

ここはかって東洋一の寺院だったと云う皇龍寺蹟、遠くに三層石塔。

ダダ広い廃墟には礎石が並ぶばかり・・・・・。

近くには幡竿支柱、これは日本では見られない、最近これの跡だと思われる柱跡が藤原宮蹟で見つかったとか??

又近くには芬皇寺址石塔。

安山岩の石材を煉瓦の形に加工し築造した石塔で一般的に磚塔と呼ばれるもので日本では見ることが出来ない。

残念ながら僕がここを訪れたときにはちょうど修理中で足場が組まれ思うように写真が撮れなかった。

最下層の四方には扉が有って両脇には石像仁王、基台の四方には石獅子像。

扉の中にはそれぞれの四方石仏,これは北方だから弥勒仏かも??遠くから望遠で引いたものだからボケボケ。

最後に南山三稜の景観、土饅頭の陵墓がなんとも韓国らしい。

今回は南山中心出回った慶州だったのでまだまだ見逃しが多い。

次回はもっと丹念に回ろう。


韓国,慶州で見かけた様々なもの-1

2010年11月08日 | 韓国 石仏:史跡他

慶州は町の周りをなだらかな山が取り囲む盆地、真ん中を流れるのは兄山江。

世界遺産でも有名な石窟庵のある吐含山付近から見た慶州郊外。

奥に霞んで見える南山,黄色く見えるのは、すべて稲田、全く日本かと見紛う景色が広がっています。

石窟庵への参道入口に立つ山門です。

山門から約10分も歩くと見える石窟庵,手前の建物じゃなく奥手の小さな覆い屋、その上にこんもり見えるのが石窟の盛土。

石窟庵は世界遺産と言うことも有ってか、しっかりガラス張りの奥に有って、内部の写真撮影は強く禁止されて居てどうしようもありません。

仕方ないので外部から1枚バシャしてみましたがさっぱり。(内部の写真は外部リンクしました)

日本からの倭寇に驚異を感じた新羅が安全を祈って、東海(日本海)に向かって造顕したとか。

 吐含山麓にある仏国寺近くのウイッツ村の棚田、日本と全く変わらない棚田がひろがってます。

ただこの地では稲架(はざ)は全く見れない、刈り取った稲はこの通り。

その後、籾の乾燥は田舎道と言わず幹線道路の歩道と言わず籾干場と成っている・・・・、これには少々戸惑ったが向こうのポリスは全く取り締まる気配もない。

ひどいところは、この籾干場と化した道路では通行止めしている田舎道にも出遭った。

もちろん、レンタサイクルで廻った時にはこの上を自転車で走った、<ケンチャナヨ>どんまいどんまい、何とアバウトか??

言わずと、飯は日本ほど美味くないことは言うまでもない。

あちらの村で見かけた景色です。

日本で言う縁側将棋でもするのだろうか??、なんとも懐かしい景色です。

向こうの民家には殆ど立派な門が有って、いかめしい住所表示が必ず付いている。

どことなく懐かしい、僕の記憶の底に有るような在所道。

 

時には牛糞が干して有ったり。

何処と無く日本とは屋根のカーブが違う 。

韓国では日本車は皆無、殆 ヒュンダイとキワモーターおまけに日本とは逆の右側通行、更に道路は殆70km規制、そこを平気で90kmで走ってる、高速道路じゃないって云うのに。

ちょっと怖くて、いくらアバウトな僕でもレンタカーを借りて走るのはちょっと気後れしてしまう。

あちらで見かけたガソリンスタンド、こういう感じが多かった、食料品は殆ど日本の半値、しかし驚くなかれガソリン日本より高くてリッター160円ほどもする

仏国寺近くの土産物屋さん街、ここでロケでも有ったのかムービーカメラの標識が・・・・。

ハングル読めない哀しさです。

どこでも同じ閑古鳥、まあ土日でもなかったけれど・・・。

撮影2010.10.14~18

慶州のあちこちで・・・・。


慶州、三層石塔

2010年11月01日 | 韓国 石仏:史跡他

 今回の旅、韓国慶州(キョンジュ)には釜山の金海空港から高速バスを乗り継いでこの地のバスターミナルに着いたのが午後9時半、そこからタクシーを拾って何とか仏国寺近くのコーロンホテルに到着したのが10時過ぎ、その日はそのままお陀仏、翌朝明るくなった窓から外を見ると目に飛び込んできたのがこの三層石塔。

小さな農村の家並みの一角に真っ白に見える三層石塔がたたずんでいて、此処は日本ではないと実感できる。

起き掛けの散歩がてらにブラブラ歩いて見に出かけた。

 

 

何でも無い農村の片隅にポツンと建ってる三層石塔、何の防御も無いのに何処にもラクガキが無いのに驚く。

殆ど痛みの無い完品だと思われる。

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南山東麓の観光地である統一殿から田舎道を歩いて南山への登山ルートに入る途中に在る三層石塔。

南山里三層石塔と呼ばれるもので東西に約15m程の間を取って並び建っている。

西側石塔の二重台座上部には八部衆の像を薄肉彫りにしているのが見える。

東側の三層石塔。

塔の奥には仏塔寺と云う寺が有った。

塔身約8m、慶州の古刹では良く見られる姿です。

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ここより更に道なりに南方へ約10分も歩くと、新しい南禅寺という寺が在ってその境内にも三層石塔が二基並び建っている。

伝、念仏寺址の石塔らしいが近年崩れていたものを修復,今の姿に成っているようです。

付近にはまだ石塔の部材だと思われる石材が残されていた。

撮影2010.10.14~16


堀仏寺(クルブルサ)址,四面石仏

2010年10月30日 | 韓国 石仏:史跡他

南山を下った後、どうしようかという事になって、それならと昨日自転車では周り切れなかった、慶州市街東方の金剛山西麓に有る堀仏寺址石仏まで走らせて貰った.

後にも2~3廻りたいところはあったが、こちらの山は殆ど車がはいらないので一つ一つ訪ねて廻るのに時間がかかってしょうがない。

オマケに右も左もわからずハングルも話せず、こちらに居るときの3倍ほどの時間がかかる。

此処はタクシーが山道の石畳参道を登り石仏の目の前まで行ってくれた、こっちは参道ぐらい歩いてみたかったけど・・・、しゃべれないと色々マズイ。

掘仏寺(クルプルサ)というう妙に意味ありげな名前はその字でも示すように『三国遺事』の次のような説話に基づいているという・・・・・。

<新羅第35代景徳王(742~765)が柏栗寺の近くまで出かけると地中から念仏の声が聞こえて来るので掘ってみると仏像の彫刻された大石が現われ、王は四方仏が出てきたところに寺を建て、「地中から仏を掘り出した」という意味で掘仏寺と名づけた。>

その新羅の時代に創建された掘仏寺(クルブルサ)は、かつて新羅仏教のメッカとして栄えましたが現在は数体の仏像と寺院址に残るこの石仏のみとなっている。

石仏は日本では見ることの出来ない特異な形式で高さ約3mの大きな岩の東西南北に9体の仏像と菩薩像を彫刻した一種の四方仏です。

四方仏は四方浄土を象徴するもので、大乗仏教の発達とともに当時盛行した信仰形態の一つで主に西に阿弥陀如来、東に薬師如来、南に釈迦牟尼仏、北に弥勒仏をまつったとされている。

正面西面の阿弥陀如来は胴体だけを岩面に彫刻、頭部は別石に彫刻、組み合わせた特異な構造、左右脇侍菩薩は大岩とは別の独立した石で造った後に両脇に立てると言う特異さです。

南面には釈迦三尊仏と思われる彫刻が在ったのですが、左側の菩薩の全体と本尊仏の頭部は日韓併合時代初期に切り取られて行方知れずになっているようです。

日本のどこかに眠っているのかも???

 東面には左手に薬盒を持った薬師如来坐像が中央に大きく一体だけ。

北面には何故だか二菩薩像が彫刻され、左側一体の頭部は欠損している。
西面、正面に当る如来像と菩薩像、下は如来像頭部です。

撮影2010.10.17

MAP


南山、三陵渓谷の石仏-2

2010年10月28日 | 韓国 石仏:史跡他

前回紹介した石仏坐像辺りから道は険しくなり、ヒイヒイの思いで運転手ガイドに着いて歩くのが精一杯。

高さ10mばかりの岩山上半部に刻まれたちょっとユニークな磨崖石仏です。

顔つきもさることながら彫方もユニークで、顔面と体躯はレリーフ調薄肉彫り、他の台座や光背は線彫りで蓮台の上に坐す如来形石仏です。

世俗的な顔容で全体的に腫れぼったく丸顔、半眼で団子鼻、唇は厚くタラコ唇、いかにも親しげな石仏です。

石仏の前からはこんな景色、黄色く見えるのは刈り入れ前の田んぼです。

全般的な彫刻様式や世俗化された顔の表現などから、新羅末期または高麗初期の作品と推定されているようです。

ここより急な登となって上禅庵の庵へと続く・・。

こんな山奥の小さな庵にも法灯を守り続けている聖職者が住まいしていてちょうどハイカーの休憩場所にも成っている。

この三稜谷一番の石仏はさらにこの庵の背後岩山を登った上の岩壁に光背ごと彫り出し、その前面に高肉彫りの釈迦如来を刻んでいる。

頭部は鮮明に良く仕上げられているが体躯は荒削りで線彫り様式、像高7m、この三稜谷一番の大きさを誇る磨崖釈迦如来坐像です。

表情豊かな顔、丸い眉毛に半眼の目、口は強く閉じられ全体的な彫刻手法から見て、統一新羅時代の後期に造られたものと見られているようです。

ここから見る景色はさらに絶景、案内人運転手は優雅に携帯、こっちはヘトヘト休憩中。

しかしこの先頂上に着いてその先、やっぱりハングルが読めない,喋れない哀しさ、案内人はどんどん先へ、どうも最初に打ち合わせたのとは逆の方に向いてるような??

こっちは又、近くの石仏でも寄ってから目的地の葺長寺址に向かうものだと、たかを括っていたがその気配もなくどんどん逆方向に下って行く。

ここで言わなきゃと地図(日本語の)を指し示して言って見るがあとの祭り、もうここからでは遠くてダメだと言わんばかり、無理強いも出来ないのでケンチャナヨと引き下がった。

通り一遍のツアー旅行ならいざ知らず、マイナーな自由旅行では電子辞書か、せめて道路案内ハングルが読めるぐらいにはしておかないとどうにもならない事を痛感する。

仕方が無いのでそのまま幹線ハイキング道をトボトボ下る。

下り道でもう1箇所見つけた石仏、これでなんとか今回は我慢しよう。

この磨崖仏には最近に成って「太和九年乙卯」の銘が見つかり新羅時代の835年に造立されたものと判明した。

 

正面には、左手、薬師如来と右手、如来型坐像、右側の岩にはやはり薬壷を持つ薬師如来坐像、薄肉彫りの簡略化した彫方です。

この後,鮑亭横の登山入口まで下って南山登山はボチボチ、チンタラで約三時間半。

撮影日、MAP共に前回に同じ。  


慶州 南山三陵谷の石仏

2010年10月27日 | 韓国 石仏:史跡他

 いよいよ南山でも一番石仏が集中しているという三稜谷に沿って登る南山登山の始まりです。

この日は前日にホテルで手配して貰った登山案内も兼ねた個人タクシーを一日借りきりました。

とにかく一日込々の120000ウオン、日本円では10000円強、それが安いか高いかは解らないけれど、広くて谷筋の多い南山、ハングルの解らない夫婦2人では覚束無いと思った。

お互い片言の日本語と片言のハングル、行き違いも少しは有ったけどまあこんなもんだと・・・、次回は少しハングル勉強しようかな???。

,南山三稜谷の登山道始まり辺りは素晴らしい松林が広がり、土曜日で天気も良いせいか、ハイカーも多く見かけた。

最初に出会った三陵谷如来石仏坐像です。

1964年8月に東国大学の学生たちにより、現在地約30m南側の地中で仏頭がない状態で発見されたと云うことで、まだ探せば仏頭が出てくるかも??

次に出会った磨崖観音石仏、このまま日本で出逢っても何の違和感もないほど・・。

 

口元には少々紅が残っている様にも・・・。

ここまではらくらくハイキング。

小さな山の様に見える大岩の表面二箇所にそれぞれ三尊仏が線刻されていて圧巻の大きさ。

前方の岩には中尊の如来と立ち姿の二体の菩薩。

 

 

奥の岩には坐像の三尊仏,あわせて線刻六尊仏と呼ばれているようです。

ここまで歩き始めて約45分、登り約半分。

次に見えたのはこの石仏坐像、殆丸彫りに近く、大きな光背を背負った如来型石仏で

 統一新羅時代の8世紀後半から9世紀前半に作られたものだと考えられています。

ここまで前半としてUP.続きは又後ほど。

撮影2010.10.17

MAP


慶州,南山拝里(ベリ) 三尊石仏

2010年10月27日 | 韓国 石仏:史跡他

南山東麓から西麓に廻って最初に訪れた石仏。

ここは南山中最も石仏が集中している三稜渓谷登山道の入り口、三仏寺に隣接している小高い台地の覆堂に安置されている。

元は現在地から少し登った斜面に倒壊していたものを1923年に復元したものだそうで、もともとこのような三尊形式の石仏で有ったのかは定かではないとか?

写真でも解る様に中央には釈迦如来を思わすような堂々とした体躯の如来石仏立像、それぞれ左右には菩薩型石仏が安置されている。

中尊の如来型石仏もさることながら特に左手の菩薩石像はその彫刻も素晴らしいく、童子を思い浮かばせる様な幼い笑をたたえ、少し首をかしげているようにも見えてなんとも微笑ましい。

中尊は像高226cm、右手は施無畏印、左手は与願印を結び、光背は肉厚の仏身にふさがれている。 もとの台座は失われ、現在の自然石の台座は復元の際に製作されたようです。

向かって左手の菩薩像は像高、2.3m、胸飾・臂釧・瓔珞などの装飾も素晴らしく、光背にも5体の化仏が彫刻されている。

台座も唯一当時のものだそうです。

向かって右手の菩薩像、像高は右手の菩薩像にほぼ等しい。

彫刻様式などから3像とも三国末期7世紀の作品と推定されているようです。

これほど大きな丸彫りに近い石仏が7世紀には彫られていたという事実と、それがほぼ完全な形で残されていたと云うことには驚かされました。

近くの拝里三稜。

撮影2010.10.17

MAP


慶州南山 仏谷(ボチョゴル)石龕仏坐像

2010年10月26日 | 韓国 石仏:史跡他
この石仏の有る仏谷は、南山の山裾が東方から北方の回りこむ辺り の斜面の山道を15分ばかり歩いた所、突然現れる巨石の突起部に舟形光背状の穴を穿ち、その奥壁に厚肉彫り石仏??が座している。
 
一目見た時これが石仏かと思うほどの庶民的な親しさのが感じられる顔立ち、チマチョゴリを纏ったような様ないで立ちで「仏谷のオバサン」と親しく呼ばれているようです。
 南山に数多く残された石仏の中でも一番古いと考えられ、保存状態も最も良いとされています。
結跏趺坐したその姿から石仏だと言われればそうなんだろうけど??、僕たち日本人の常識破りの姿です。
こうした構造は他では見られないそうで、二重の蓮弁が支える台座に座るこの石仏は統一新羅時代8世紀後半の作と思われ、阿弥陀如来と推定されたりもするが、印は衣の中に有ってどうも良く解らない石龕仏です。
撮影2010.10.17

慶州 南山弥勒谷(ナムサンミルクゴク)石仏坐像

2010年10月25日 | 韓国 石仏:史跡他

南山東斜面の、昨日紹介した塔谷磨崖像群の有る集落より直ぐ南隣の集落「ケツ村」をどんどん奥に進んだ斜面に最近再興成ったと云う菩提寺がある。

道は険しいながらもタクシーが何とか門前まで行ってくれてラッキー、一作日レンタサイクルで探したときには見つからずじまいに成っていた。

三聖閣という真新しい仏堂の左高台に端麗で慈悲感あふれるこの弥勒如来坐像が蓮台石盤の上に坐している。

我が奈良當麻寺金堂にある国宝「弥勒坐像」の原型としても知られるこの石仏はいかにも優雅で口元の微笑も日本人好み。

像高約2.5m、堂々とした丈六仏で統一新羅全盛時代の造立にしては風化も少なく保存状態もこの上ない。

舟形二重光背にも雲形模様,化仏等の細かい細工が施されているのがはっきりと確認出来る。

裏側に回ると光背裏面には薄肉彫りではあるが薬師如来坐像が刻まれてるのが見える。

慶州の古刹では当たり前の様に有る三層石塔がここでも見られた。

撮影2010.10.17

MAP


慶州 南山塔谷磨崖彫像群

2010年10月24日 | 韓国 石仏:史跡他

南山の北端キョンジュ市街に近い東斜面の古寺脇に有る大岩に彫られた磨崖彫像群で、この様な類のものは日本では見かけない。

小さな集落の奥から谷筋に沿って延びる車が1台通るかどうかのような山道を行くと、結構大きな空き地が有って其の奥に民家のような建物。

車をこの空き地に置き建物の奥に進むと小さな崩れかけたような玉龍庵が有り其の左脇手斜面に直立する黒っぽい大岩におびただしい数の仏像や塔などが彫られていて驚かされる。

高さ約10m、幅約30mの大きな岩壁と周囲の岩に仏像・菩薩像・塔をはじめ飛天像や樹木など合計34点が絵画のごとくに描写、彫刻されていて、其の一つ一つを克明捉える事もできないし、まして詳しい説明など僕には出来かねる。

ただ何と云っても圧巻は正面両脇に彫られた七重と九重の塔と、其の中央に座す天蓋をもった如来形石仏。

薄肉レリーフですが痛みも少なく、塔の下には雌雄一対の獅子像が刻まれている。

正面は北面になるそうですが、斜面を右手、東面に廻れば仏像と菩薩像をはじめ、木の下で禅を組む僧侶像と神将像・飛天像など、最も多くの彫刻が配置されている。

斜面を登りきると岩の頂上付近、岩から少し離れて三重石塔、南面になる岩には少し荒削りで彩色跡の残る三尊仏坐像と菩提樹。

少し斜め右前方に別石で如来形立像と思われる丸彫り石仏、頭部から顔半面が欠損、左手を腹部においているので女性からは、お産のカミサマと信仰されているらしい。

最後斜面を下り西面には如来坐像を中心に左右にそれぞれ樹木が彫刻され、上部には飛天も見える。

南山の数多く有る石仏としてはちょっと異例な石仏のようです。

此処は南山石仏でもラクショウだった。

 撮影2010.10.15

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慶州 良洞里村 (ヤンドンリマウル)

2010年10月23日 | 韓国 石仏:史跡他

せっかく、慶州まで来たのだから、ちょっと無理してでも此処はなんとしても訪れておきたかった。

韓国通の知り合いに紹介してもらったあちらの人に無理を云い、慶州市内から車で約1時間弱かかるこの良洞里民俗村 に案内してもらった。

村自体ががユネスコ世界遺産に登録されている韓国朝鮮時代の典型的な両班村でもう日本では失ってしまった懐かしいふるさとの匂いも感じることが出来る。

まるでタイムスリップしたような佇まいとわたる風のにおいは遥か昔僕が物心つき始めた頃の農村を彷彿とさせてくれる。

村は150軒余りの瓦家と藁葺屋根が混在した農村で、特に丸みを帯びた藁屋根にはなんとも云えない郷愁を感じてしまう。

石をはめ込んだ土塀、其の上の草屋根・・・。

日本で言えば何に当るのだろうか??中には大きな石碑の様なものが祀られていた。

子供は何処でも一緒、かわるがわる中を覗き込んでいる。

 

此処は観稼亭、「穀物が良く育って子孫が無事成長するように・・・」とか??

観稼亭付近の高台より・・・・向こうに見える立派な建物は香壇(ヒャンダン)

 

香壇(ヒャンダン)は高級官吏が母親の為に建てた別荘のようなものか??。

瓦屋根民家と藁屋根民家、この集落は豊かな集落だと思った。

集落の一軒で手作りお菓子を買って食べた、10個入り、3000ウォンだったかな??

此処は心水亭(シムスジョン)と呼ばれる東屋。

集落は時間が止まったような懐かしさを見せてくれる。

片田舎の農村だった僕の生まれた土地がそのまま甦ってきたような・・・そんな音とそんな匂いのする空間でした。

撮影2010.10.15

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